後悔

人気者の草彅剛さんが真夜中に酔って羽目をはずし、逮捕された。私の目には日本がまるで飲酒を認めないイスラム原理主義国家のように見えた。人にほめられたことをしたわけでないから、本人は恥じいっていることは確かだ。しかし、だれもいない真夜中の公園で、酔っ払いが破目をはずして、大声を出しただけのこと。ローマのG7で、酔いつぶれかけて、記者会見に臨んだ大臣のほうがよほど酔態の露出度はひどいと思うのですが、こちらは風邪薬のせいとすりぬけて、謹慎も何もありません。
しかし両者ともひどく後悔したことだろう。失ったものはたしかに大きいといえる。しかし草彅剛さんは問題なく再出発ができる。けれど、とり返しのつかない失敗をしでかしてしまう人も決して少なくはない。新聞には社会的に地位のある人が、破廉恥な犯罪やひき逃げ事件を起こして、逮捕拘留されるという出来事が連日のように報じられます。それは多くある犯罪のひとつに過ぎないけれど、事柄は酒に酔って起こした失敗とは全く違って、それまで営々と築いてきた社会的信用、キャリア、人間関係を、仕事もろとも失うことになります。そして本人の身近にいる家族にとっても生活環境が激変することになります。

つくづくとそんな後悔をする身になりたくはないけれど、人は時折小さな後悔をする破目に陥ります。<後悔先に立たず。>その先が分っていれば後悔するようなことに、人は手を出さないはず。しかし先を見通すことのできない人の弱さ。大小の問題はあるけれど、過去にも将来にも、後悔するようなことは自分には一切無縁だと言い切れる人はいるのだろうか。本当は、責任を問われる立場におりながら、自分には責任がないといいのけて済ます場合はしばしば起こります。分厚い聖書語句辞典で「後悔」を引くと、マタイ27:3だけがでてきます。

『そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」といった。』

ユダ以外の11人の弟子たちは、後悔していなかったのだろうか。当然、彼ら一人ひとり、皆深い後悔の念に押しつぶされそうになっていただろう。でもただ一人ユダだけが自殺してけじめをつけようとしたと言うことではないだろうか。ユダは12人の中でもっとも良心的で責任感あふれる存在ということになる。少なくともユダはそう受け止めて、自殺して果てた。しかし他の弟子たちはそうは考えなかった。同様な深い後悔に立ちつつも、彼らの人間性に取り付かれた深い罪は、自殺でけじめがつくほど簡単なものでないことが分ったからである。ユダの自殺は裏切りへのけじめであり、最後に残っていた良心の表明と取れないこともない。しかし本来の人間の罪業は底知れぬほど深い。事ここに立ち至ってなお、自らの良心や正しさを主張できると考える愚かさしか持ちえていないのである。

人は自らのこころの闇をどこまでも見つめなければならないのではないか。そして闇のどん底まで下って救い出されたイエスキリストを見上げることではないのだろうか。しかし往々にそこにとどまり続けることができず、われわれは救われ、きよめられてしまった神の民。罪も過ちにも無縁とされた聖なる存在、と受け止める傾向もある。
神がこうした存在であるわれわれを赦し、救い、その民の一人としてくださったのは確かであるが、同時に、われわれは深い心の闇を併せ持つのである。神に救われつつも、なおエゴと矛盾を併せ持つもの。そうした存在であることを見つめつつ、だからこそ神により近く歩むことをつとめねばならない。闇を克服する光は、神そのものだから。

(2009年04月26日 週報より)

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