主に向かってあたらしい歌を歌おう

世界には次から次へとさまざまな事件が起こります。新年早々に起こったアルジェリアでのテロは真面目に働いていた日本の技術者を無慈悲にも犠牲に追いやりました。テロやハイジャックは事の本質に無縁な人々の犠牲をもたらす赦しがたい犯罪です。しかし困ったことには、そうした犯罪をあえて正当化して事件を起こすところまで行き詰まった状況におかれている、膨大な人々を生み出していることです。家庭生活あるいは勤めている会社という範囲で成立している私たちの日々の歩みも、今では世界の政治や経済とつながらないでは成立していない事を改めて思い知らされた出来事でした。

いつこの身に来るかもしれない苦難、解決のない問題にかこまれて、人は悩みます。聖書には無数の悩む人々の群れが登場します。さらには神に選ばれた国家であるはずのイスラエルが、神に裁かれ、刑罰としての<亡国と捕囚>という悲劇を経験します。並みの古代国家であればそれで歴史の舞台から姿を消していたでしょう。しかしイスラエルの偉大さはそこから新たな歩みが始められたことです。

神はイスラエルに語られます。「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。 エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役のときは いまや満ち 彼女の咎は償われた、と。 罪に倍する報いを 主の御手から受けた、と。」(イザヤ40:1,2)

イスラエルは民族全体として身も心も打ち砕かれました。ただ、それは滅びるためだったでしょうか。神に刑罰を受けたのは死ぬためであったからでしょうか。人が日常生活の中で直面する事件、失敗、痛みは、これを背負い込んだわれわれの肉体や存在の中でなにがしか、みずからの非、罪に目を向けさえるものではないだろうか。

ただ<痛み>の感覚とはまさに生かされている感覚にほかなりません。問題を意識することもない日常では人は誰によって生かされているかも覚えることもありません。でも病気や罪や問題性を知りつつも、なお生かされているのは、神、自分を造られた神によると知るべきです。イスラエルの歴史が物語るのは、世界とわたしがどんな危機に陥ろうと、人格者なる神はわたしを生かし、わたしとともに生きてくださると言うことです。たとえ亡国の憂き目に身をさらし、家族を失うという状況の中におかれたとしても、人が神の力を信じ、みずからの罪を認め、神の力を信じるとき、人は確かな道を歩み始めます。そのときこそ人は新しい歌を歌うのです。

(2013年01月27日 週報より)

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