心ときめく聖書の世界

聖書には、一見、実行不可能としか思われない箇所がたくさんあります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)もそのひとつです。最近まで、私は、この聖句は右の頬の痛みにも耐えて、黙って左の頬を差し出さなければならない、無抵抗による愛の実践の奨めかと思っていました。

ところが、最近の研究では、それほど単純な意味あいではないことが明らかになっているようなのです。「相手の右の頬を打つ」という動作は、<左利きの人>しか出来ません。多くの人は<右利き>ですから、普通に叩くなら、「相手の左の頬を打つ」ことになります。ですからこの場合は、右の頬を手の甲で打ったことになります。

当時ユダヤの世界では、手の甲で打つと言うのは相手に対する侮辱を表すことであったようです。イエス様が、<左の頬も向けなさい>と言われたのは実は「手のひらで打って欲しい。私を一人格として認めて欲しい。」と言うプロテストの意味もあったと知り、新しいイエス様を発見したようで嬉しくなりました。

「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)と言う聖句も実行不可能のように思えます。これを読んで「やっぱり、私はクリスチャンにはなれない。」と思ってしまう人も多いのではないでしょうか。人は、自分が一番可愛いし自分中心に自分の得になるよう、考え行動するものです。しかし、私は、最近特に「自分を愛することの大切さ」を実感しています。<摂食障害><薬物依存><ひきこもり><虐待>等が社会問題となっていますが、<自分が大切にされているという実感>がなく、<自分のことが好きになれないでいる>ケースが多いように思われます。自分を愛することが出来ないのです。

多くの場合、人は、親の愛情-他人との比較でなく、あるがままの自分という存在を愛してくれる愛にふれ、先生に褒められたり、友達からの励ましによって、自分自身が、あるがままの自分を受け入れ、自信を持って生きられるようになるのです。ところがそうした親や受容的な教師に出会えない場合も少なくありません。また、現実の親や教師も、完全ではありません。

イエス様が「隣人を自分のように愛しなさい。」と言われたのはまず、絶対的な溢れるような神の愛を知るときに、初めて人は自分の存在を肯定でき、隣人を愛することがきるようになること。自分の存在を肯定出来て、はじめて自分の存在の尊さを知り、隣人の存在の尊さがわかるのだと思います。
「わたしの目にはあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し・・・」(イザヤ43:4)
聖書の中には実行不可能と思ってしまう箇所がたくさんありますが、聖書はイエスキリストを通して私たちに自由と開放を与えてくれる書です。聖書の奥深さ、すばらしさに感動しています。

副牧師 小枝 黎子 (2005年07月10日 週報より)

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