にもかかわらず

キリスト教信仰とは<にもかかわらず、神の存在を信じること>とよく言われます。パウロはアブラハムが「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた」(ローマ4:18)と言いました。つまり信じても道が開かれるような兆候すら今は見えない。事柄はますます悪くなる一方である、その時こそ人は神を見上げ、信仰に生きるときと、自分に言い聞かせる、と聖書はわたしたちにかたりかける。

あれあれと思う間もなく大久保ではヘイトスピーチががなり立てられるようになってしまった。自衛隊が海外派遣される素地作りがぐんぐんと進んでいます。新聞によるとアメリカ軍によって自衛隊の砂漠訓練が行われていると伝えられています。訓練において完全に絶命させることが教えられるのだそうです。一発で人は即死しないので相手は致命的な傷を負っても反撃できる。だから2発で絶命させることが教えられるのだそうです。戦後70年人を殺さない日本人が、確実に人を殺す自衛隊として地球の裏にまで展開する必要がどこにあるのでしょう。

外国人に銃口が向けられる体制は、いずれ同国人にも向けられることが可能です。歴史は繰り返されるのだろうか。しかしここ数十年かけて日本で起こってきた歴史の偽造、ねつ造は驚くべきほどのものがあります。そして近い将来憲法改定がスケジュールに上ろうとしています。まず国旗と国歌の尊重義務が課せられます(自民党憲法草案第3条)。つまり、強要されます。現行の憲法20条には全面的な信教の自由が謳われていますが、自民党憲法草案では信教の自由は社会的儀礼または習俗的行為の範囲を越えないものについてはこの限りではないと付け加えられます。社会は劇的に変わる可能性があります。

私の父親の世代は、10年ごとに戦争をしていた時代に生きていました。戦後においてアメリカは朝鮮で、ヴェトナムで、イラクで、アフガンで、そして今はテロとの戦争とかで世界はますます戦争の泥沼に引き込まれています。そしてアメリカとともに世界のどこでも自衛隊は戦おうとしています。政治家たちはそういう日本に再び戻そうとしているのでしょうか。かつてのナチス全盛期のドイツでも、少数者であったけれど、ナチスに屈しない人々がいました。

当然ながら戦争においては、敵と味方を識別する必要に迫られます。敵と識別された人々には徹底した殺戮と、彼らが人間以下の存在として憎悪と差別を下すのです。そうして戦争は様々な犯罪行為を生み出してゆきます。

そうした価値観をキリスト者は受け入れることができません。すべての人は神に愛されているのです。敗戦から70年。日本が戦前と違う点はこの戦争という殺りく行為に、70年、手を染めなかった重い事実です。この平和の歩みを全くひっくり返して、再び戦争への道を歩み始めるのかどうかが今決められようとしています。過去を振り返り、未来を展望しつつ、尽きるところ、人は神を選ぶのか、サタニックな方向に歩むのかを選択することを求められるのです。

社会の大勢がどうであれ、にもかかわらず平和に生きる。私たちは今日も十戒を唱えます。

<殺してはならない>と。

(2015年04月19日 週報より)

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