イエスキリストは、きのうも今日も、永遠に変わらない (ヘブライ13:8)

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

ヨハネ16:33

この言葉を語られたのは、十字架を直前にしたイエス・キリストでした。よほどご自身の身の上に起こってくることがわからないか、わかったうえでの大言壮語なのか、あるいは人類史の行く末を見通したうえでの神の勝利を文字通り見抜いたうえでの判断なのか、迷うばかりです。ただそれがイエス・キリストの歩まれた時代であれ、ヨハネが教会を指導した時代であれ、教会はまことに小さく、ささやかで、明日の存在すら危ぶまれるほどの存在だった。これが中世ヨーロッパの、教会が唯一の権威であった時代の教皇の言葉なら、まだ説得力も感じられますが、1世紀からから2世紀の教会はとても<世に勝っている>有様では、なかったはずです。

とはいえ確かに規模だけで事が測れるはずはありません。1世紀のイエス・キリストの父なる神と、現在のイエス・キリストの父なる神が別の存在であるはずはありません。少しも変わらぬ神だからこそ、私たちは喜んで祈り、拠り頼むことができます。ウイリアム・ウイリモンの著作によるとキリスト教会への徹底的な迫害を実行したディオクレティアヌス帝の迫害の時代(303年頃)
『ローマには数千人の信徒が属するおよそ40のバシリカ風教会堂が存在するようになった。こうした信徒の急速な増加は、教会への加入が容易であったとか、教会が文化的に適応していったとか、構成メンバーへの要求がおだやかなものになったというような背景のもとに生じた現象ではない。・・・』 (「言葉と水とワインとパン」副題<キリスト教教理史入門>52p)

十字架にかかるイエス・キリストを見て、死の恐怖心をいだかない人はだれもいません。あの12人の弟子たちの不甲斐なさは、特別で例外的な反応ではなく、当然で誰しもが陥るかもしれない反応でした。ですから主イエスは、ご自分を裏切った弟子たちを責め、批判する言葉は驚くほど少ないのです。むしろ全面的に許し、あたかも裏切りなどなかったかのような印象すら受けるのです。十字架を失敗とみる見方があることは知っています。しかしイエスキリストにおいて、十字架は神の計画の一部でした。避け得るものなら、避けたかった十字架です。しかしあえてこの苦き盃を主イエスはお受けになりました。また弟子たちにあっても十字架を前に、彼らの真実の姿をさらすことは必要なことでした。十字架の前における混乱ぶりを通し、弟子たちは、よりましだと信じてきた自分自身への内面の姿を、全く改めたのです。

結果として弟子たちの力なさや不完全さにもかかわらず、あのローマ帝国による恐るべき迫害の中で、主イエスの言葉。<しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。>は見事に実現したのです。そしてそれは今日も少しも変ってはいないのです。

(2015年04月26日 週報より)

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