クリスマスイブに、肉は食べない?

信じることと、愛することは、どこかでつながっています。どちらも相手があってのことです。つまりそれが向けられる対象があります。そしてあくまでも自己中心的、エゴセントリックでは、愛も信仰も、成り立ちません。相手を利用する目的で愛したり、信仰したりすることは出来ないのです。誠実で、いちずで、それなしでは生きられない真実さが求められます。愛とはそうしたものであり、信仰も同様だと思います。最近、またか、と思った出来事があります。国会で所属政党の提出した議案に反対して、法案が参議院で否決されたことから、選挙が実施されました。結局、政権党が地滑り的な大勝利をおさめ、あらためて法案が提出され、今度は、先に反対した大半の議員が賛成にまわったという出来事です。様々な理由がつけられ、結局議員たちは信念を曲げました。選挙では法案反対を訴えての翻意ですから、議員を信頼して投票した支持者を裏切ることになりました。彼らは、党本部の遣わした刺客と称する法案賛成候補者と戦いながら、声の限りに法案の不備や不当性を訴えたことでしょう。しかし、国会が始まった途端に行なわれた投票では、反対から、賛成にまわったのでした。党本部はそうした議員たちを、処罰するといい、除名も考えているといいます。一時は造反した議員たちは、党から離れたら生きて行けないとばかりに翻意したのです。

日本の政治においては、時折そうしたことが起こります。人の考え方は、千差万別です。ことの善し悪しは、それぞれの考えるところで、政治的信念に従って行動するのです。ですが昨日まで<安保反対><自衛隊反対><原発反対>・・・たしかに反対ばかりですが、それなりの意味も、役割もありました。それが一挙に覆えされた出来事がありました。あくまでも政治的主張、判断は個人の自由の問題です。それぞれが、自らの信念に基づいて、主張し、同意し、支援します。だからこそ、人が<これこそ自分のよって立つ拠点である。>と主張してきたものは、変わるべきではないのです。ある日突然に、一挙に信念や主張を放棄することは、信頼を失うことにつながるのです。しかし、ことは、一寸先は闇、という政治の世界の出来事ですから、よくあること、と片づけられるのです。しかし、これが信仰の問題になれば他人事ではなくなります。信仰は私たちの存在そのものを問うことですし、また、私たちの日常を造り上げることでもあるからです。

来週主日から教会暦の上では<降誕前節>にはいります。クリスマスを意識しつつ、神の前に心ととのえながら、主の降誕を待ち望みます。いつか聖歌隊を指導してくださっている声楽家のM先生が、ウイーンのクリスマス・イヴについて何度か話されました。「オーストリアではクリスマス・イブには肉は食べません。」魚を食べるのだそうです。静まり返った深夜人々は着飾って教会に集うのだそうです。けれど大騒ぎや、御馳走は抜きなのだそうです。<クリスマス・イヴ=御馳走>とは数学の公式のようなもの、と思っていた私にとっては新鮮な驚きでした。ところが教会暦を重んじるカトリックの人々は、イヴを含めたアドヴェント期間、つまりクリスマス以前の4週間を肉なしに過ごすようです。もちろん、その根本は肉を食べるか否かという、形式が問題なのではありません。いかにキリスト教信仰を、心の奥底に刻み付け、いかに日常の中に表わしていくかを、自分に問いかけるということでしょう。信念とか、信仰という精神的価値を、ファッションのように着替えていく日本的生き方を反省させられたのです。
毎週のようにユニセフから悲痛なレポートが届けられます。今日もパキスタンの地震被災者のための緊急援助の要請が届きました。地震被災者は400万人。半数以下が子供たちで、五分の一が五歳未満とのこと。被災者たちの外科手術は、現在、麻酔ぬきで行なわれているという、ゾッとする報告が伝えられました。(CNNニュース)苦しみ悲鳴をあげる人々が世界中にいます。キリスト者が信仰を翻すようでは、世界に救いはありません。あらためてキリストと他者を深く思うことを目指したいと思います。せめて私も、今年のイヴに御馳走を食べることはしない。(つもりです。)

(2005年10月16日 週報より)

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