メガネ

この十数年、私の視力は加齢と共に、不思議な変化をした。もともと目は悪いほうではなかったのに思春期以降、近視がすすみ、またどういうわけかひどい乱視が入ってきた。ちょうど50才を過ぎる頃、老眼の入口をむかえた。丁度、その頃のある晩、夜10時の<ニュースステーション>を見ていたら、キャスターをしていた久米弘さんが、冒頭でやおら眼鏡をケースから出して「よる年波には・・・」とか言い出して眼鏡をかけたのです。どうやらそのキャスターの方も1944年生まれとかで、久米さんと私と、老眼鏡入りが、あまりにも近い日にちの出来事だったので、忘れないのです。ところが私のほうは、老眼と、近眼が相殺しあうと言うことなのか 一時期、好調であればいずれの眼鏡も使わずに済むということもあったのです。

そのままの状態で安定してくれればこんなに好都合はありませんが、そんなわけがありません。かなりの乱視と、近視と加齢による老眼。以前は本や新聞や書類を読むのに眼鏡を使わずに読めたのに、今では眼鏡なしには何も読めません。けれど机のまわりの書架にある本を取り出そうとすると、近視メガネをかけていると、今度は何も見えないのです。30~40cm以内の活字を読むためには、近視メガネは必需品ですが、2mほども離れているものを読み取るには却って邪魔になるのです。さらには車を運転するときには、別の老眼鏡を使わねばなりません。ところが日中、車を運転する時には、これはまったく必要ではないのです。見えるようになったのではなく、おそらく、加齢による老眼がすすんでいるからだと考えていますが、果たしてそうかどうかはお医者様に聞かなければ分かりません。ところが夜、車を運転するためにはこの眼鏡が必要なのです。ですから老眼鏡を捨てるわけには行きません。

今の私にとって眼鏡がなければ何も読むことが出来ません。されど状況が変われば、その眼鏡の故にかえって物はぼやけてしか見えないのです。これは物事を受け止める受け止め方に通じるかもしれません。<信仰>も一つの眼鏡といえます。信仰心ゆえにキリスト者には一般の人々には<見えにくい>世界が、見えるといえます。ということは、逆のこともありえるのではないだろうか。つまり信仰があると自負しているゆえに、じつは全く見えていない。
たしかにキリスト者は、罪赦された存在です。ただ許してくださった方はあちら側で、赦されたわれわれは、罪なる過去をひきずり、良心的であろうとすれば自己改革に必死になっているに過ぎない存在ないのです。けれど往々にして、許されてしまったのだから、もはや罪とは無縁の正義の存在と高飛びするのです。神の子にされ、聖と正義の衣を着せられたのだから、罪と無縁の存在。罪責感をどこかに置き忘れたら、他人の告発者となる道しか残されないかもしれない。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対してイエスはいわれた。「・・・徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸をうちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんで下さい。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者はたかめられる。」

ルカ18:9

(2011年02月20日 週報より)

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