仕えられる者ではなく、仕える者に

先週、堀之内駅周辺の郵便局や銀行に出かけ、ついでにスーパーに立ち寄ったとき、店員の皆さんはすでに全員が(たぶん)真っ赤なサンタ姿でした。まだアドヴェントにも入っていないのに、世の中はイルミネーションがかがやき、商戦はクリスマス全開です。数年前に教会のクリスマス案内を新聞に入れようとして、新聞販売所に持っていったところ「宗教の案内はチラシとして受け入れられない。」と断られかけたことがあります。なんとか受け入れてもらって,折り込んでもらったけれど、クリスマスの<クリス>はキリストの<クリス>など、どうでもよいのだろう。

いよいよ来週主日からアドヴェント(待降節)に入ります。クリスマスには、物に恵まれている人はこの時とばかりに高価なものを購入したり、たいそうなごちそうを食べたり、豊かさを実感するときであるかもしれない。でも、世の中の実態はどうであるかは知りませんが、たまたま問題を抱えて、今ほほ笑むことのできない人にとって、周囲の幸せそうな人々を見るだけで、寂しさはつのるものです。自分だけがそうした幸せから遠のけられているように思えてくるのです。

クリスマスとは、やがて世界を救う救い主となる幼子イエスがベツレヘムの馬小屋でご誕生になった出来事です。そんなの当り前と思うでしょうが、騒ぎのわりには、ことの次第を知らない人も多いのではないかと私は思っています。たとえば<クリスマスとは、サンタの誕生日のこと>くらいな答えは日本では珍しくないはずです。
幼子イエスはこれ以下の貧しく、みじめな誕生はなかったといえる貧しいご誕生でしたが、お生まれになった幼子は<ザ・キング・オヴ・ザ・キングズ><ザ・ロード・オヴ・ザ・ローズ>なる方でした。さらにそこに聖書のクリスマス物語には直接登場しないものの、クリスマス物語を動かす重要人物がおります。時の皇帝アウグストです。本来共和政だったローマを帝政に変えたローマ初代皇帝です。この人がローマ帝国全体の人口調査を命令したからこそ、出産直前のマリアですら、生まれ故郷に帰って登録をしなければならなかった。その旅の途中、ベツレヘムの家畜小屋で幼子イエスがお生まれになったのです。
皇帝の名前はアウグスタス=尊厳者だそうだ。アウグスタスはいくつもの彫像が残っています。筋肉隆々、鎧をまとった姿はなるほど立派そう。けれど実際のこの人は虚弱体質で、弱々しい外見だったと書いている人は多いのです。苦労を重ねてローマ皇帝に上り詰め、自分を神のような尊厳を持つ男と演出した、ただの人。ただの人が、小さくても大きくても、強大な権力を振うときにひどく専制的になることは人間の常です。まして手にした権力がローマ皇帝という立場なら戦争と人々の奴隷化は日常のことでした。

ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストは、まことの神、王の王でありながら、全人類につかえ、苦しみをいとわない、しもべの道を貫かれ、やがて十字架で地上の生涯を終えられました。力を至上の価値と信奉する者はアウグスタスひとりではなく、あちこちで自分の力を試し、暴力を振るおうとします。まして少年時代から虚弱であったかつてのオクタビアヌスであれば、神をもしのぐ権力と感じられたのかもしれない。しかしそうしてふるう権力・暴力は、実は逆に、弱さの証明のようなものに違いない。真の力は、人を愛することの中に、他者を救うことの中にしかありえないのです。自らの存在証明のために暴力をふるうこころとは、弱さの証明でしかない。

(2013年11月24日 週報より)

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