心を新たにして自分を変えて・・・

人生に苦闘のない人はいません。人並みに努力を傾け、学び、働き続け、歩んできた道をふとふり返ります。人生の方向は変えようもありません。すでに一定の年齢をこえて、身についた経験や能力という自分の世界は、すでにゴールを見通せるところにまで達しています。到達しえた一面もあれば、人生はどこまで行っても途上でしかありえません。年齢だけは容赦なく加わりますが、人間としては、人はいつまでたっても、頑是ない子どものようでしかありません。
冒頭の言葉を記したのは使徒パウロです。ユダヤの伝統を身につけ、学問を収め、信仰に徹し、時代の国際語であるギリシャ語も身につけ、そのうえローマの市民権も得ていた、履歴から言えば申し分のない地位の人間。しかし彼がしていたことはキリスト教徒への迫害と殺害の息をはずませていたことでした。
学問と、宗教と、社会的地位を極めて、行ったことは、抵抗も敵対も全くするつもりのないキリスト教徒を、女性も子どもも容赦なく殺害し迫害することでした。ふとわれに戻ったときに、ぬぐいきれない罪なき他人の血が手に、足についていたのです。その場かぎりの熱狂と思い込みが、人間の心を忘れさせていたのです。言い知れない慙愧が押し寄せて来たに違いない。

暴力の犠牲になった人々は、同じ目にあわせてやりたいとしばしば思うものです。しかし復讐は受けた暴力の二倍、三倍となり、暴力は更なる暴力を生み出します。しかし目覚めたパウロに与えられたのは赦しでした。キリスト教徒たちも、パウロに復讐しようとした人はいませんでした。当然のように生きてきた常識や習慣と、キリスト教徒から受けた扱いは全く違うものでした。
「心を新たにして自分を変えていただき・・・」とはパウロ自身の経験です。人は自分で変わろうとしても変われるものではありません。でもこの<変容><変貌>は、毛虫が蝶に変わるような変貌を意味すると説明されます。あるいは<神による新たな創造>なのだと説明されます。やはり自分で変わるのではなく、作り変えてくださるのは神さまなのです。

私たちはキリスト教信仰について、何もかも分かりきってしまったような感覚を持っているような気がします。神が私にしてくださることも「ホドホド」「ソコソコ」の範囲を超すことがないのです。期待感が<ホドホド>なら、神が行ってくださることも<そこそこ>でしょう。
ベトサダ(ベテスダ)池のほとりに38年間寝たきりの病人に向かって、主イエスは「良くなりたいか」と問われました。私たちは信仰を生きることが苦手です。普段は威勢のいいことを言っても、いざ神の前に立つとなるととても勇気がいるのです。

神の助けの不必要な人は誰ひとりいません。神が問うのは「変わりたいのか」という意志です。その願いのあるこころには、神の新たな創造の出来事が必ず起こるのです。

(2008年07月13日 週報より)

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