信じるということ

電車に乗って目的地に出かける。するとしばしば「人身事故のため、ダイヤに乱れが生じています」といった事態に遭遇する。多くの人は 「またか」といって顔をしかめ、数分前に一人の人の命が失われているかもしれないことにすら、感覚が麻痺してしまう日常の出来事である。

日本では、ここ8年連続で自死者が3万人を越えている。交通事故の死亡者をすら上回る「自殺大国」である。それぞれがそうした事態に至るには、様々な要因が絡んでいることであろうが、多くは過労やストレスからくる「うつ状態」といった心の健康が損なわれることが直接の原因である。私の周りにも、急激にあるいは周期的に心身のバランスを崩す人、しばらく休職・入院していましたという知人が何人もいる。多くは心の優しい繊細な感性の持ち主で、仕事もまじめにこなす人々である。優しさと強さというのは、いったい両立しないものなのだろうか。他者に対する配慮、まじめさ、正しいことを正しいと言うこと、そのことと苦境にあるときに折れない心の強さを併せ持つことの難しさを思う。

「日本は心が貧しい国」と言ったのは、あのマザー・テレサである。物質的には豊かになったはずの日本で、実は心の飢えに苦しんでいる人が数多くいるのを僅かな滞在期間の見聞を通して見て取り、指摘した。

食べ物(パン)ではない、心の貧しさ、心の飢えとは何だろうか。ただ名誉やお金や地位を得ることだけが生きる目標となり、強い者には言うべき事も言わず、弱い者に対していじめ(ハラスメント)を繰り返す。ひたすら仲間外れになることだけを恐れ、長いものには巻かれろと、毎日が無事に終わることだけを願って過ごす。世の中には、いじめられている人の気持ちを推し量ることもできない神経の鈍い人が多い。しかしそうしたある意味で「ずうずうしい人たち」は、物事を表面でしか判断することができず、また実は一人では何もできない臆病な人たちであることも多いに違いない。

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神の間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

ローマ書5:1

何かを信じるというのは、心の強さをもたらす。しかしその強さも方向を間違えると、とんでもない強さとなってしまう。自らの欲望を満たす名目として、もっともらしい信仰が語られることすら、ないとは言えない。いやおおいにあるようだ。キリスト教の名前を語ってすら。毎日駅頭でポスターを掲げて立ち続ける人々も、信じることによって少なからぬエネルギーを得ていることだろう。
天皇信仰を基盤とする日本のナショナリズムも、一つの宗教である。信じることによって、どのような悲劇が繰り広げられたのか、歴史が教えることは数多い。信じることの良い面と悪い面を見据えた上で、どのような信仰を求めるのかが問われる。貧しく、悲しみに満ち、柔和で、義に飢え、憐れみ深く、心が清く、平和を求め、迫害されている人たちが、汲んでも涸れることのない「生きた水」を見出し癒されるように、ただそのことを願う。

五十嵐 彰 (2011年02月13日 週報より)

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