重荷を負う

互いに重荷を担いなさい。

ガラテヤ書6:2

「人生とは重荷を負うて歩む旅である。」と家康が言ったとか。頂点を極め、権力を思う存分振り回した人間の言葉とは思えないけれど、この人にしてもどうにもならない重荷があったということだろう。この世を生きる上で、はた目には幸せそうに見える成功を生きている人であっても、歴然とした困難を生きる人でも、人生を生きることは重荷を負うのである。例外的に、自分ひとりだけ人生の重荷から逃れることはできないのです。幸せそうに見える人生も、つらさに満ちた人生であろうと、人生の重荷は平等にのしかかるのである。

私は1944年生まれで、戦後民主主義と、平和の時代を生きてきた。その前の世代が、軍国主義と戦争の時代をすごし、教会さえも迫害を受け、殉教者を生み出したことに較べれば、なんと大きな世代の違いと思ってきた。しかし今年、日本は1000年に一度あるかないかという大震災を経験し、震災によって二次的に引き起こされた原発事故は、震災被害を東日本全体に拡大し、その放射能は21世紀を数十年以上も汚染し続ける可能性を持つものとなった。重荷も、苦しみもない時代などというものはないという事実をあらためて思い知らされた。こうした実感は、より楽天的に考えてきた自分の人生を見つめる感覚を根本的に見直さざるを得ないのです。

自分ひとりで負いきれないほどの重荷を背負っているのだから、これを信じれば重荷から解放されると言ってくれる宗教があれば、人はそれに食いつくかもしれない。たぶん新興宗教やカルトといわれるものの大半はそうして人を引きつけ、じつはさらに重い重荷を人々に負わせるのではないか。
聖書はそうは言わない。聖書は<互いに重荷を担いなさい>といいます。海に浮かぶ巨大な貨物船も、重心を取るために重しがあります。これなしには荷を積むことができない。重心が上がって、船は転覆するのです。人も耐えられないような重荷を背負いつつ、だからこそ他人の重荷も担ってあげることがあります。耐え難い重荷がのしかかっているからこそ、他人の重荷を理解することができます。重荷を負いつつ、他人の重荷を担うことさえあります。重荷を知らない人が、他人の重荷を負うことはそも不可能です。近代の音楽や美術は、芸術家の苦悩と労苦と重荷がきっかけになっていることは少なくありません。

イエスキリストも「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。」といわれつつ「私の軛(くびき)を負いわたしに学びなさい。」といいます。イエスは軛(くびき)がなくなるとか、重荷が取り去られるとは言われません。信仰生活とは重荷がなくなる生活ではないのです。人はそれぞれの人生に重荷を背負って歩むのです。そしてだれよりも重い荷を負われたのがイエスキリストだった。われわれは主イエスの十字架を負うことはとてもできはしない。けれどそれぞれにわたしの十字架をおう。

この時代を生きることは、決して安逸な人生を生きることにはならない。肩に食い込む重荷を知っている分、軛を共に負いあう。ともに負ってくださるイエスがおられ、くびきを共にする仲間がいる。この適当な重荷があるからこそ、人生はひっくり返らない。人生という船が転覆しないのはこの重荷あってのことだからです。

(2011年10月23日 週報より)

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