この時
先週20日(水)未明に、広島市で予想を超える土石流が発生し、死者42名、行方不明者43名と伝えられています。ホーリネス教会も、被災者が多く出た広島市安佐南区にありますが、被災はまぬかれたと報告が入りました。災害が起こった後ではどんなことも言えるでしょう。しかし突如とした災害で命絶たれた人々、そして人生をその場所にかけて築き上げた家族の歩みが突如断ち切られ、それを支えたホームが一挙に失われた痛手は、はかりしれません。住民の方々は、まさかここでこのような大規模な土石流が起こるなどとはよもや思わなかったとインタビューで答えられていたそうです。けれどこの場所は地盤が崩れやすい土壌で出来ているとかで、ここに再び住宅建設をすることは、同じ轍を踏むことにつながるということで、避難生活の長期化がすでに心配されます。
今回の災害が伝えられて、大量の降雨があると、土石流やがけ崩れを起こす可能性のある場所は全国で50万か所以上あると伝えられました。ことによるとわれわれ自身が被災者になる可能性もあるかもしれない。
私はふと一つの言葉を思い起しました。<激しい叫びと涙>です。被災地ではあまりの突然の悲劇に激しい叫びと涙が交錯したことでしょう。<激しい叫びと涙>という言葉はヘブライ人への手紙5:7にあります。「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声を上げて、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」
イエスのご生涯は自由で、生き生きと闊達で、権力者・祭司・ファリサイ人を完膚なきまで論破して、激しく叫んだり、涙を流すことは多くはなかったように感じるのです。しかし主イエスは、確かに祈りの人でもありました。一人神の前で祈るとき、主イエスは激しく涙の祈りをささげたのです。あの主イエスが神への深い信頼のゆえに<激しい叫び声を上げて、涙を流しながら>祈られたのです。人は絶望にかられ、悲しみに身をよじらせて、叫び、涙を流すことがあります。しかし悲しみや絶望が祈りに昇華することは難しいのです。
主イエスは、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、祈られたばかりではありません。ご自身が自らの肉体を犠牲として十字架につけられたのでした。激しい叫びと涙の祈りは、私たちに向けられた愛そのものゆえでした。問題や悲しみに圧倒され、祈るどころではなくなっている私たちにかわって、祈り、とりなし、私たちに希望を与えてくださるのです。主イエスの必死の愛は、誰にでもなく、私たちに向けられたものであるなら、少なくとも何らかの形で私たちはお答えしたいものです。
私たちは祈るとき、どちらといえば、私たちの抱えている問題が解決したり、事が軌道に乗ることを当然祈ります。しかしどれほど主イエスのみ心が実現されることを祈るでしょうか。私たちは自分自身のために祈ることは大切です。しかしキリストがただひたすらに、私たちのために激しい叫びと涙を持って祈られたことを覚えつつ、悲しみの中にいる人々のために祈りたい。主の慰めが届くように。
(2014年08月24日 週報より)