許しと再生

私がごく幼いころNHKラジオで<モンテンルパの声>とかいう放送が時折流れていました。モンテンルパはフィリピンのマニラにあった戦犯収容所の名前でした。1945年2月に旧日本軍が支配していたフィリピンを奪い返すために戻ってきたアメリカ軍との間に熾烈な戦闘が開始され、その結果米軍の戦死者1,020名、日本軍戦死者12,000名そして戦闘の巻き添えになって亡くなったフィリピン人が10万人出たのです(もっともフィリピン全体で日米両軍の戦闘に巻き込まれて亡くなったフィリピン人は110万人を超えたのだそうです!)。昨日(8月29日)NHKで「憎しみとゆるし?マニラ市街戦 その後?が放送されました。戦後フィリピン大統領になったエウディピオ・キリノはマニラ市街戦に巻き込まれ妻と3人の幼い子供たちを日本兵に虐殺されたのです。近くにいた隣人はその時の模様を「近づいてきた日本兵は2歳の末娘を声が出なくなるまで銃剣で刺し続けたのです。」と番組の中で証言しています。

エウディピオ・キリノは1948年から1954年まで大統領職に就任します。その任期の終わり近い1953年7月に、多くの反対を押し切って、残された105名のB,C級戦犯(そのうち62名は死刑が決まっていた)に恩赦を与え、その年の末までに全員が日本に帰国できたのです。この突然の恩赦決定は長らくキリノの心に行きつ戻りつした悩ましい問題でした。みずから日本兵による残虐行為の結果、妻と幼い3人の子供たちをなくしていたのですから。

フィリピンは国民の9割がカトリックだそうです。キリスト者であれば、基本的に主日の礼拝に参加します。礼拝においてカトリックであろうとプロテスタントであろうと、主の祈りを祈り、信仰告白を言葉にします。とくに主の祈りでは「我らに罪をおかすものを、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ります。キリノは信仰によって、赦しに立つという苦渋の決断をするのです。番組の中でキリノは発言します。「日本人によって妻と子供を殺された私は、彼らを最も許しがたい立場にあった。だが私は許すことにした。」
番組には一人の女性が登場します。戦争中、彼女は憲兵隊本部に連行され、一人の訊問官からひどい拷問を受け顔が変形するほど殴られ歯も何本も折られ、やがて釈放されます。その憲兵は戦争が終わると訴追され、やがて死刑の判決を受けます。ほどなくして彼は自分が拷問にかけたフィリピン人女性の訪問を受けます。当然、報復のために来たと彼は感じ取りました。しかし彼女の口から出たのは「あなたを許します」と繰り返して言う言葉だったのです。その元憲兵はその場で声を上げて泣きじゃくったとその女性は語ります。彼女はその元憲兵を伝道のために訪問し続け、やがて彼は洗礼を受けたのだそうです。番組にはその喜びの洗礼式の模様が映し出されました。キリノ大統領にしても、この無名の女性にしても、フィリピンのキリスト者に宿る驚くほどの許しの心は、残虐行為をした兵隊も、拷問を行った憲兵の心もはげしく動かしたのでした。

ところで、安部首相が今年4月A級,BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で次のようにメッセージを送ったと伝えられました。「今日の平和と繁栄のため自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉難者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げる」
その後官房長官が慌てて「A級戦犯については極東軍事裁判において、被告人が平和に対する罪を犯したとして有罪判決を受けたことは事実」「我が国はサンフランシスコ平和条約で同裁判所の裁判を受託している」と弁解したのです。一方で苦渋の赦しに立って多くの死刑囚を恩赦したキリノ。他方で蛮行を行った犯罪者を祖国の礎といってはばからない政治家。その落差に愕然とします。

(2014年08月31日 週報より)

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