主の来臨の希望

エレミヤ書 31:31-34, 33:14-16

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今日のテキストは預言者エレミヤの言葉が引かれています。エレミヤは、すでに北イスラエルが滅んでしまった紀元前6世紀、細々と生き残っていた南のユダ王国で活動した旧約を代表する預言者です。
ユダ王国もついに廃墟と化してしまいました。何故そこまでして留まろうとしたか。自らは正しい信仰に踏み留まったがゆえに、神に選ばれたが故に生き残ることが出来ると信じていたからでした。ユダ王国は滅びないと固く信じていた。ユダ王国にはエルサレムの神殿があった。神がおられ、神殿が存在するが故に、ユダ王国は神に守られると固く信じていた。その神殿も直後に破壊され、王は捕らえられ、ゼデキヤ王は両眼をくりぬかれ、国家は破滅したのです。

しかしイスラエルにおいて神は天地・万物を創造し、歴史、人生を支配し導く神なのです。神はその意志としてイスラエルに律法を与え、神の義と神の愛によってイスラエル民族を選び、歴史を導いてこられた。神がなぜイスラエルを選んだのか。それは圧倒的な神の慈しみで、他のいずれの民族よりも弱い、弱小民族であることの故だった。神とイスラエルは神による選びと契約の関係にある。
だからイスラエルは神の民、神が見捨て給わない神の民だと思っていた。
・・・自分たちは神に見捨てられたのか・・そう考えて絶望した。

その神の民が今滅ぼされた。人々は、自分たちは神の民だから、決して見捨てられることはない。エルサレムは決して陥落することはない。そう信じきっていました。しかしイスラエルには(エレミヤもその一人ですが)預言者と言われる特別な人々がいました。将来を言い当てるというより、神に言葉を預けられて、神の言葉を語るという意味合いがあります。エレミヤは神の意思としてイスラエルの裁きと滅亡を繰り返し語っていました。このままでは国が危機に陥る。国家の破滅と敗北・過ちを声高に言うことほど勇気がいるでしょう。国家からは裏切り者、売国奴呼ばわりされる危険なことであり、避けがたいことです。
しかし、ことはエレミヤが語ったとおりに推移します。エルサレムは徹底的に破壊され、神殿には火がかけられ、王を始め国の主だった人々はバビロニヤに連行されます。しかしエレミヤはそこから希望の予言を語ります。
エレミヤはバビロニヤに抵抗する過激派によってエジプトに連れ去られ、命果てたといわれます。

今日、エレミヤ書の31:31-34節も開きました。この部分こそエレミヤ書のピークです。そして旧約聖書としても重要な部分といわれます。わたしたちは新約聖書、旧約聖書を持っています。この新約、旧約とは契約の意味だといわれます。新約とはイエスキリストの死と復活の後に、旧約聖書からイエス・キリストの福音を解釈して、イエス・キリストの十字架の血による神と人(つまり教会)との契約としたのです。

日本においてこの契約関係の対極にあるのが地縁、血縁関係です。私は由木に引っ越して間もないときに、地元の町内会の役員(顔役)が訪ねてきて、「あなたはここの住民になったのだから、地元の八幡神社の氏子になったのです。町内会活動に協力してほしい」と言われました。屋根に十字架のついた教会の伝道者に向かってこう言えるほど地元は強かったのです。何しろ地元の町内会の寄り合いは由木小学校と由木中学校のクラス会の延長なのです。その上、町会が関わる交通安全協会は八幡神社の札を売ったり、祭りの交通整理も仕事だった。しかし、その他の町内会や交通安全には協力するが、宗教活動には参加も協力も出来ないという態度で今に立ち至っていますし、了解も成立しています。確かに日本人の生き方の中で、社会の人間関係と社会構造は、血縁関係が根底にあったと思います。由木においては互いに深く血縁関係が絡まって、社会ができていたのです。     
さすがに時代が変わって今はそうした関係は崩壊しましたが、関係はなんとなくコネが重んじられ、温情的で、仲間意識的に結ばれているところがあります。そうした関わりが、とてもプラスにもマイナスにも作用したような気がしてなりません。
しかし、最も喜ばしい人と人との関わりは、コネに基づく温情だけであっていいはずはありません。それは気分次第では、全く正反対の関わりともありうるでしょう。人間と人間は一個の人格として深く尊重される関わりでなくてはならないでしょう。

神は何の選ばれる価値なくしてイスラエルを選び「あなたは私の民だ」と言ってくださるのです。だからイスラエルは、これに信頼と愛をもって答え、神の御心に従って生きようとしたのです。十戒では「あなたは私の神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。」だから・・・してはならないと続きます。
たぶんイスラエルの民自身は、なんとなく自分たちは選ばれた神の民と思い続けていたかもしれません。しかしその後のイスラエルは、むしろ罪と反逆が歴史を動かしてゆきました。少なくとも聖書の記者たちはそう見ました。イザヤやエレミヤも同様な見方をしていました。王や民の自己認識は「自分たちは神に選ばれた者。神の御心を知り尽くしている者。神は我々を見捨てることなどありえない。ましてエルサレムが火で焼かれ、国が滅びることなど、ありうるはずがない」―という信念に固執していました。そうした考え方に逃げ込みたい思いは理解できますが、だからこそ滅びを預言するエレミヤを許すことが出来なかった。
しかしエレミヤが語ったとおり、エルサレムは陥落し、国が滅び、主だった人々は奴隷として、王は拷問を受けバビロニヤに連行された。それはつまり、彼らにとっては神に見捨てられたと言うことでした。

人々がこの深い絶望に陥ったとき、今まで裁きと滅びを説き続けてきたエレミヤが、今度は逆に希望を語り始めたのです。エレミヤは本当の真実な神を見出した。(32:36-44)
イスラエルを選ばれた神は、人間の目からは絶望以外何もない、これ以上の悲劇は存在しないこの暗闇の中で、変わらぬ救いを実現する。この絶対的崩壊は神殿だけでなく、国家だけでなく、民族そのものの存続さえ想像もできない状況なのです。イスラエルという幹は根元から切り倒されたのです。人々はユダヤは神に見放され、神との契約も破棄され、国も民も見捨てられたのだと考えるしかないと思うほか、何も期待はできなかった。ここは人の住めない場所になった。人どころか獣すら住まない場所だ。

この状況でエレミヤに聞こえてきた神の声は31章全体だったのです。神様はイスラエルの家、ユダの家、つまりイスラエル全体と契約を結ぶと言います。まず言うのは、「これはエジプト脱出の際の契約とは違う」。エジプト脱出の際の契約とは何でしょう。言うまでもありません。十戒です。つまり古い契約である十戒は破棄される。破綻したとしても、神は新たな契約をイスラエルと結んでくださる。それは十戒のように石の板にではなく、一人ひとりの心の中に刻み付けられる。「神を信じるすべてのイスラエル人が従う。その日が来る」と伝えたのです。

エレミヤは、イスラエルの将来はバビロニヤで開かれることを語りますが、これを受け入れずにエジプトに避難する人々と行動を共にし、その人々に処刑されたといわれます。けれどバビロニヤに移り住んだ人々はイスラエルの歴史を見つめ直して、深い悔いあらための中で、選ばれたイスラエル自身の罪の歴史を見つめぬいて、旧約聖書を今のような形に編纂したといわれます。すべてを失ったっその時こそイスラエルの再出発の大切な時であることを深く自覚したのです。

神様が何事かをわたしたちに働きかけているという時はあるのです。イスラエルにとっては、このバビロニヤ捕囚という時がそれであったと思います。エレミヤは廃墟の中から神の黙示を見つめたのです。人でも、民族でも、そこでどう考えるか、どう受け止めるかで、人生や運命が全く違ってくるという時があると思います。信仰はその重要なポイントを作っていくのです。試練の時、喜びの時、私ほど大きな試練にあっているものはないと時折感じるものです。しかしその人にこそ神様はその恵みを伝えようとされています。

2022年11月27日 礼拝メッセージより

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