クリスマスの光

この時期になると、クリスマスの飾りが、あちらこちらの窓辺に、競いあうように、点滅します。季節感もあるし、「ああクリスマスだ。」と単純に喜べることは嬉しい思いがします。けれど、ここ数年のちょっとした傾向としては、単なる家庭のクリスマス飾りというイメージをはるかに越えて、飾ることへの<気合い>が感じられれるほど、豪華な飾りが目立つようになりました。ただ、見過ごしている分にはそれはそれで良いのでしょう...でも多少違和感があります。確かに、サンタや、ツリーや、クリスマスの祝祭だって、本来のキリスト教とは別物だったらしいのです。でも、それをイエス・キリストの誕生祭として、クリスマスをここまで高めてきたのはキリスト教そのものでした。もちろん全世界の人がクリスマスを祝い楽しむことができます。でも一方的に、完璧にキリスト教を排除したうえで、クリスマスを祝い楽しむことなど、出来ないのです。日本のクリスマスは、この点が異様といえば異様です。教会のそばに、確か創価学会である方がいます。(べつに、信じる宗教は自由ですが。)その方の自宅の大きな木にも、輝く電飾がきらめいていて、不思議な思いにとらわれました。教会や、キリスト教とは完璧に無縁でも、クリスマスツリーを掲げられる国民性とは、奇妙というしかありません。われわれキリスト者はみずからすすんで、他宗教の祝祭を祝うことはしません。クリスマスには、宗教や国民性を越えて、人の心を打つメッセージがあるとはいえ、最近のクリスマス飾りには、やはり違和感があります。でもあの電飾は一点だけはあたっています。

つまり、クリスマスの出来事は<夜>の出来事だったということです。クリスマスは暗闇の出来事でした。母・マリヤは、ローマ皇帝アウグストの権力強化と誇示を目的とした人口調査のため、臨月の身で、長旅を強いられました。それも一つの理由でしょう、彼女は旅の途中、ベツレヘムにおいて出産の時を迎えました。夜、医者も、助産婦の助けも無く、出産に必要な場所も無く、家畜小屋で幼子イエスは生まれ給いました。夜は一つの象徴でもあります。政治の闇、権力の闇、あわれ家畜小屋の出産を強いられる貧しい一家を省みようとしない人の情の闇。幼子イエスのお生まれになった時代よりもはるかに暗い21世紀の世界。2005年のユニセフ白書によると、1億8千万人の子供達が最悪の形態の児童労働に追い使われており、200万人の子供たちが性産業で搾取され、毎年120万人の子供たちが人身売買の犠牲にされている、とのこと。また、やはりユニセフ白書では、世界では、15歳から49歳までの死亡原因のトップは、交通事故でも、ガンでもなく、エイズであり、また近年のボスニヤ、最近のコンゴ、シェラレオネ、リベリア、スーダン・ダルフール紛争で、女性と女の子に対するレイプが戦略の一環としていまなお、組織的に実施されていると伝えてきています。

現実のクリスマスほど、貧富の差、幸・不幸の差、順境・逆境の差が現われる時はありません。クリスマスは愛の光をかかげる時です。一本のろうそくの光は、ほの暗くても、あたたかい。ほの暗くても、本物の光だからです。<われこそは>という電飾の照明は、自己顕示的であっても、暖かい光にはならない。このクリスマスに、つらい立場にある人々に対して、なにかささいでも、愛のこころを示したい。だれかの心に、光がともるような何かを。

(2005年12月18日 週報より)

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