ハンナ・アーレント著「イェルサレムのアイヒマン」を読む

この数週間、10年も前に手にしていた上記の本を読んでいました。かねて読みかけていた本ですが、あまりに文字が小さく、しかも表現が回りくどく、読み切れず中座していたのです。

ハンナ・アーレントは1906年北ドイツのハノーヴァーで生まれ、のちにハイデッガー、ブルトマン、ヤスパースのもとで哲学と神学を収めた大変優れたユダヤ人女性で政治哲学者といわれる女性です。この時代にドイツで生を受けたユダヤ人と聞けば、途方もない不幸を背負わされたことになるわけで、1933年にヒトラーが政権につくと同時に、ハンナ・アーレントはフランスに亡命するのです。しかしやがてフランスがナチスドイツに席巻されると彼女はフランスに設営された強制収容所に収監され、やがてアウシュビッツに送還される直前、そこを脱出し、アメリカに亡命します。アメリカで大学教授として、この本を含む何冊もの本を出版したのです。

この本の書名に挙げられた<アイヒマン>はハンナ・アーレントと同じく1906年ドイツ・ラインラント州のゾーリンゲン生まれ。いくつかの高校に進学するものの、いずれも卒業することなく大恐慌後のドイツ・オーストリアを転々とする中で、1933年にナチ党に入党します。やがてたまたまナチ政権下で<悪名高い親衛隊ユダヤ人科>に配属されます。当初ナチスはユダヤ人をどう扱うかについて様々なアイディアが交錯します。パレスチナに送り返すとか、マダガスカル島に移送するなどの考え方があったものの、最終的に1942年のベルリン近くのバンゼー湖会議で[絶滅]が決定にいたるのです。
1941年、アイヒマンはゲシュタポ・ユダヤ人課課長としてユダヤ人をポーランドの絶滅収容所移送の担当者としてその腕を振るうことになります。1942年はドイツの戦線も陰りが出てきた年で、一台でも多くの車両を最前線に送り込まねばならない状況下でアイヒマンは600万人のユダヤ人移送にその力を振るったのです。戦後アイヒマンはカトリックのフランシス会修道士の援助を得て国際赤十字から渡航証を入手して1950年イタリアからアルゼンチンにわたり身を隠していたものの1960年イスラエルの秘密情報機関モサドに拉致され、イスラエルに強制的に連行され、世界中の目が注がれる中に裁判が行われました。やがて死刑の判決が下され1962年刑が執行された。ハンナ・アーレントはその裁判に出席し、裁判で明らかになったすべてを細部にわたって記述し、そこからこの人らしい判断と解釈をあらわしてくれます。

一つにはユダヤ人移送について各国に存在したユダヤ人共同体の指導をしたユダヤ評議会が、おおかたのヨーロッパの国々で、移送の基本資料になる住民票を積極的にナチ当局に提出していたという事実です。ハンナ・アーレントはこの協力がなければアウシュビッツの被害者数は半分で済んだだろうといいます。

さらにこの裁判を目撃した誰もがこの600万人ものユダヤ人移送=殺戮にかかわった人物が、普通の人だったということです。確かにあのナチ時代ふつうの人々が、食べてゆくための就職口として強制収容所に勤めたのです。アイヒマンは「自分は一人として殺すことはなかった。個人的にユダヤ人殺害には嫌悪を覚えていた。」と証言しました。<自分が行ったことは上司の命令に沿って、移送を行ったこと。そのユダヤ人たちが、その後どうなったかは、自分のあずかり知らぬこと>。アイヒマンは最後の最後まで自分の犯した罪の大きさを理解できなかったのです。
その現実を、ハンナ・アーレントは<悪の凡庸さ>と呼びます。池明観さんは<現代に生きる思想-ハンナ・アーレント共>という著作の中で、ナチスが行った600万人のユダヤ人虐殺を、ハンナアーレントが、それは一時的な間違いなどではなく、現代的思考の表れと表現したことを紹介しています。「今日は政治的操作や組織的嘘が動員され、意図的なプロパガンダが動員され歴史的事実の解体がおこなわれる。」<現代に生きる思想-ハンナ・アーレント共に 池明観著>
ことによるとだれでもアイヒマンになりうるし、どこでもナチ犯罪のくりかえしはありうるということです。過去に犯した出来事の罪責を引き受けない。そして過去の歴史をねじまげる。まさしく現代に日本で堂々と進んでいる現実にほかなりません。

(2013年11月17日 週報より)

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