私が選んだのは、ただおまえたち(イスラエル)だけ!

「イスラエルの人々よ・・・
地上の全部族の中から私が選んだのは おまえたちだけだ。
それゆえ、わたしはお前たちを すべての罪のゆえに罰する。」

アモス 3:1-2

旧約聖書の預言者アモスは、ユダの小さな村テコア(エルサレムから10数キロ南)にいた一人の羊飼いでした。彼はある日、神からの語りかけを聴きます。その中心が上記の言葉です。神は「地上の全部族の中から、私が選んだのは、おまえたちだけだ。」と語られるのです。神はイスラエルとの間に<特別な関係>を打ちたて、イスラエルは<特別な神の愛>に応えるはずでした。しかしイスラエルは神の前に信仰の真実に生きることはなかったのです。神を否定することはありませんでした。だが、異教の神を迎えました。「あれも、これも」の関係は時には罪です。結婚関係でも妻も愛するが、愛人も作る、という愛はありえないのです。

アモスは告発します。イスラエルの神の民とされた人々が、
「貧しいものを靴一足の値で売った」事実を。(2:6b)
「父も子も同じ女のもとに通い、神の聖なる名を汚した」事実を(2:7)
祭司たちは「祭壇の傍らで質に取った衣を広げ、科料として取り立てたぶどう酒を神殿の中で飲んでいる」退廃を。(2:8)

本来信仰に生きていた人々が、退廃に身をゆだねるとき、道徳的退廃、金銭的退廃と他人を見る目も、金の有る、無しでしか人を見なくなるのです。つまり差別的見方しかできなくなっていくのです。

それが神に選ばれた民、イスラエルの現実でした。イスラエル民族のアイデンティティは<礼拝共同体>にほかなりません。しかしアモスの見たイスラエルの現実は、神を持たない他の民族よりも救いがたい退廃の現実でした。

預言者アモスが弾劾した信仰の民の退廃の現実と歴史は、そのままキリスト教会の現実と歴史に当てはまるでしょう。アモスはそれでも神がこの信仰の民を捨てずに、やがての日に民を修復することを預言します。後の日に神はイエス・キリストを送られ、圧倒するような十字架の愛で、神の愛は何であるかを現されるのです。

人は不変の神に選ばれたことを誇ります。しかしそれは他方で必死に神の民としての現実を真実に歩みぬくことがあってこそ保たれてゆくのです。信仰者たらんとして、神の前を歩んでいる緊張感をどこかに置き忘れたら、私たちはただ流される流浪の民に過ぎないのです。

(2013年06月02日 週報より)

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