神に生かされて

相変わらずありとあらゆる占いが盛んです。ますます人々がさまざまな占いに心惹かれているように思います。占いは星座や星の運行から、人の運命は動かしがたく決定付けられている。人は自らの定められた運命を知って、これに従って生きるべきなのだ、という考え方が根本にあります。つまるところ、人生は努力しても無駄だ。あなたの人生など決定済みなのだ。あきらめこそ人生の最上策なのだ。・・・と言い聞かせるのです。
人生に希望が見出せなくなり、将来に夢を託すことが出来なくなると、人は<自暴自棄>に向かわざるを得なくなるのです。孤独で周囲との調和を保つことが出来なくなり、やがて暴発するのです。キリスト教が生まれた時代はまさにギリシャ的な運命論が人々の心を支配していた時代のことです。

イエス・キリストは人々のうちに働きかけ、信仰の<こころざし>を与えるのです。
「あなた方のうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(フィリピ2 : 13・口語訳)
人々は運命を受け入れて、人生を諦めるのか、キリストを信じてこころざしを立てて生きるのか、どちらかを選ばねばならなかったのです。暗い運命論の中にうめいていた人々にとって、イエスキリストによる再生の呼びかけはどれ程の希望にあふれた言葉であったかを想像することはむつかしくありません。

『もう私の人生はどうにも取り返しがつかなくなってしまった。』だれよりもそう思っていたのは、主イエスの弟子達だったでしょう。主が十字架にかからねばならないという言い知れぬ不安と苦しみにあったときには、弟子たちは序列争いに明け暮れ、主が逮捕、裁判、拷問にさらされると自己の保身を図るために裏切りと逃亡を図り、やがて主が復活したといううわさを聞いても、当然ながらぬぐいきれない不信が弟子達の中にありました。とても<キリストの弟子>らしからぬ姿が福音書の中に記されています。弟子たちは自分が何者であるのか、どれほど弟子としてふさわしくないのかを思い知っていました。

そうした心の痛みと、ふがいなさをかみしめつつ、それでも彼らを弟子としての召命を与えようとする神の意思です。イエスキリストの弟子達ほど心に深い傷を負っていた人々はいないでしょう。世の中では裏切り者には死と制裁しかありえないでしょう。しかし、キリストにおいてはまず全面的な赦しがあり、裏切りの後ろめたさからの癒しが与えられたのです。そしてほかならぬ弟子たちが生き返ったように、激しいまでの積極的な宣教に弟子たちは向かっていくのです。弟子達に聖霊が注がれ、彼らの心に火が灯されるのです。
挫折に打ちのめされたり、心に傷を負うことも多様な人間の経験の一部です。それは人生の不可能さやあきらめに向かうのではなく、神は人間のもっとも深い心の奥底に癒しと赦しを届けるきっかけに変えられるのです。復活とはイエスキリストの復活を指すことですが、乱暴な言い方をすれば神である主イエスが復活することはたやすい事です。しかし、挫折と後悔の中で沈みきっていた弟子達の人生が復活した出来事のほうがさらに大きな事といえないでしょうか。
罪と弱さの中にあった人々を、あふれる様な神の命に与らせて、あの巨大なローマ帝国を変えてしまうほどの大きな働きを可能としてしまう器にする。傷ついた器ほど神の器に変えてしまう神の業。2000年後のいま、求められるこの信仰。

(2008年04月06日 週報より)

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