さすが、イエス

・・・イエスは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

マルコ9章33・34節

 世の中は常に「誰がいちばん偉いか」を議論し合っているようなものです。テストでは少しでもいい点数をとった人が偉く、受験や就職では少しでも有名な学校や会社に入った人が偉く、就職したら少しでも偉くなることを目指して働く。少しでも偉くなれば下の人を見下し、偉くなれなければ偉くなった人をうらやみ、偉くなれなかった自分を卑下する。私たちは、自分と周りの人たちを見比べながら、こうした優越感と劣等感の繰り返しのなかで生きているような気がします。
 しかしイエスは、そうではないのだと言います。世間で偉いと言われている人たちは偉くも何でもないのだ、本当に偉い人は人の上に立つ人ではなく、人に仕える人なのだと言うのです。
 これは、驚異的な教えです。世間の価値基準を転倒させる教えです。本人が美しいことや、きれいな服を着ていることや、大きい家に住んでいることなどが人を評価する基準ではなく、その人の生き方、すなわちイエスを受け入れる生き方をしているかどうか、社会で排除されている人、無価値とみなされている人を受け入れる人こそが、イエスにとって「偉い」のだと言われるのです。
 数十年前に、ニュータウンにあるキリスト教会が合同で講演会を開くことになりました。高名な医者を講師として招き、パルテノン多摩を会場として準備が進められました。各教会から準備委員が選出されて、私もその話し合いに参加しました。その場で、ある人が「知り合いの市議会議員を招待している、ついては議員のために招待席を用意したい」と言い出しました。私は、違和感を覚えつつ、曖昧な理由で反対意見を述べましたが、その時ほど聖句をわきまえておく必要性を痛感したことはありませんでした。

あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には「あなたは、そこに立っているか、私の足元に座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

ヤコブの手紙2章2-4節

 ある人を持ち上げることが、ある人を見下すことにつながるのです。おじいさんたちがパレードで軍服に沢山の勲章をつけて自慢げであったり、戴冠式で頭に王冠を載せてもらって得意げだったり、本人たちは満足しているようですが、私にはある種の悲劇であり喜劇であるように思われます。
 6月の子ども礼拝でこうした話しをして、ある若い女性に対して、こうしたイエスの考え方について「どう思う?」と尋ねたところ、彼女は即座に「さすが!」と答えてくれました。私はこの一言に深い感銘を覚えました。古今東西さまざまな神学者たちがイエス・キリストの教えの奥深さ・素晴らしさを究めようと研鑚を積んできましたが、その本質をこれほど素直に、かつ簡明に表現したことはなかったのではないでしょうか。やはり、あなたは「さすが」です、イエス・キリスト!
 私たちの身の回りには、私たちが気付かない神の業が満ち溢れています。

五十嵐 彰(2023年7月9日 週報の裏面より)

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