悩みと喜びの中で
新聞を読み、テレビニュースを見るたびに、人という存在はつくづく心の重荷と悩みに包まれて日々を送っていることを思わずにはいられません。次の言葉は使徒パウロの言葉です。
コリントⅡ 2:4「わたしは、悩みと憂いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。」
コリントⅠ 2:3「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」
コリントⅡ 11:29-30「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまづくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄をほこりましょう。」
これらの言葉は有名なパウロの言葉ですから、普通は何のこともなく通り過ぎ読み飛ばしてしまう聖句です。使徒パウロが悩みに悩んでいたのは、パウロ個人の問題というより、コリントの教会の問題についてでした。ひとは自分自身の問題でも、にっちもさっちも行かなくなることもあります。ましてや遠く離れたコリント教会の問題は使徒パウロでさえもお手上げでした。他人をコントロールすることなど人間には不可能だからです。パウロという人は強靭な精神力で事を突破する力のある人です。戦う力も、忍耐する力も、人並みではなかった人です。しかし生身のひとりの人間としては、悩み、涙を流し、苦しみ、弱さに打ちのめされながら、神の前に歩んだ人でもあった…のかもしれない。
時に伝道集会の証などで、「わたしは神様を信じ、すべての悩みから解放されて、悩み多い人生から希望にあふれた人生に180度変えられたのでした・・・。」と語られたりします。それは半分事実でしょうが、半分は事実ではありません。信仰があっても、なくても、貧しくても富豪でも、人が生きてゆくうえで、人に悩みが消えることはないのです。ただ、ひとが信仰に生きるとき、悩みつつ、なお希望を捨てない生き方をすることが可能だからです。人生は多様です。悩むことと喜ぶことが共在します。苦しみもあれば歓喜もあります。悲しみもあるし、愛もあるのです。ひとはその多様さを知るべきなのです。心を悲しみだけにゆだねてはならないのです。
これもパウロの言葉です。
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなた方の広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすればあらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えをキリストイエスにあって守るでしょう。
フィリピ4:4-7
(2016年02月07日 週報より)