苦しみを抱えつつ

はた目には何の問題も苦しみも持っていないように見える人も、様々な困難や苦しみを心に秘めていることがあるものです。人生には悲哀や別離が避けがたいのです。深い愛や親密さがそこにあればあるほど人は別離の中で深い打撃を受けます。聖書に目を転じれば聖書の神は富んでいる人、満腹している人、権力ある者の味方でなく、むしろ貧しい者、飢えている人、泣く者の味方とあります。

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。問題が発生したときのみ、人が信仰に目を向けるのであれば、それは確かに問題があります。しかし、何かの問題を通して人が神に目覚めさせられるということもあり得ることです。

イスラエルの人々がエジプトで奴隷の身に落とされ、苦しみ叫んだとき次のように書かれています。「それから長い年月が経ち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。」(出エジプト2:23)
イスラエルの民族史はここにスタートしたのです。この苦しむ者の叫びが聞かれたことこそイスラエルの原点でした。

かつて韓半島が日本の植民地とされ、人々は言葉を奪われ、名前は日本名を強要され、皇民化政策が強権行使された時代、旧約聖書の出エジプト記は韓民族には希望の書だったといわれます。エジプトで迫害されるイスラエル人は過去の物語でなく、そのまま自分自身の写し絵として受け止めることができた。人々は教会に集まるごとに出エジプト記を読み、神に祈ったといわれます。ところが当時の日本の官憲は聖書のその部分をスミで塗らせたり、切り取ることさえさせたのです。しかし時、至って、神は人々の祈りを聞き、韓半島の人々を日本の重圧から解放してくださったのです。

物質的にも、日常的にも、何もかも恵まれているとき、人は深く人生を考えたり、心深く内省することはしないでしょう。日常生活はすべてに順調に、何もかも自分のペースで事が進んでいく。権力の頂点にあるかのように錯覚した人が過ちを犯すのはこうしたケースです。イスラエルは試練や苦しみの中で苦しむ人々に目を注ぎ、苦しむものと連帯してくださる神を知ったのでした。

(2016年01月31日 週報より)

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