見える希望と見えない希望

今日はイースター。4月も第2週というのに正直まだ寒い。とはいえ学校では入学式も行われ、小学校から大学生、社会人まできらきら輝く新一年生が生まれました。心からお祝いを申し上げたい。

これらの若者たちには希望の光が輝いています。けれど自分には<希望の光>など全く射してこないという人も、この時代少なくありません。使徒パウロの言葉に次のような言葉があります。

「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望ではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう」

ローマ8:24(新改訳)

いま、希望が見えないと実感している人は少なくない。将来的には日本の人口は7千万人となり、いまよりほぼ半減し、これに伴う社会的経済的、政治的課題はますます困難になるといわれ、ますます希望は見えにくいものになってゆくことが予想されます。けれど聖書の言葉は、社会的状況―つまり目に見える社会的風景に、希望が見えなくなっても、本当の希望というものは最初から見えるものではないと語りかけます。希望に輝いてせっかく入った大学や会社生活も、5月には頓挫するという5月病というのがありましたが、あれはもう過去のものになったのでしょうか。

動物が希望に生きるというのはあまり聞きません。我が家の愛犬は、えさにありつけることがすべてです。パウロによれば<目に見えない希望もある><いや、目に見えない希望こそ、ほんものの希望だ>といいます。

いま目に見える希望がないと感じている人、失望を味あわされたひと、わたしたちに課せられているのは、失望や絶望に逆らって、希望を追うことです。それは肉眼では到底見えない。しいて言えば心の目で見るものです。「アブラハムは、希望に抗(あらが)いつつ、しかもなお希望に基づいて信じた。」(ローマ4:18/岩波書店訳) 見えている状況に逆らって、抵抗して信じる。

最晩年のベートーヴェンがすでに聴覚を失った中に第九交響曲を作り上げたことはだれでも知っています。ただの人なら自分に与えられた不遇をどれほど恨んだことでしょう。あまりにも不公平な神を憎悪したかもしれません。しかしベートーヴェンは恨みや憎悪に身をゆだねませんでした。逆に生きることの喜び、信仰の幸いを思いのままに音楽にしました。

わたしたちの人生でも、見通しが全くたたなくなる時があります。神が私の人生の可能性の芽を摘んでおられるとしか思えないことがおこります。人生に生えることもあるし、時には失うものもあるはずです。だが、どんなに明日の可能性が見えなくなったとしても、わたしたちは、いまはこの目には見えなくも、希望は捨てないで生きよう。聖書によれば「目に見える望みは、望みではない」のですから。
今日はイースター。主が復活することを信じていた弟子などただ一人もいなかった。神のなさることは人間の感覚をはるかに凌駕する。私の人生に神が何をなさるのか。私たちは神を見上げよう。

(2012年04月08日 週報より)

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