いまこそ信仰のとき

主よ、あなたの道をお教えください。私はあなたのまことの中を歩みます。一筋(ひとすじ)の心を私にお与えください。

詩篇86:11(ダビデの詩)

冒頭の言葉はいつかの礼拝の詩篇交読で読まれたものです。以来私の心を去来する言葉です。人は生き続ける中で様々な状況に直面します。そしてそのたびに時に激しく、鋭く心が揺れ動くものです。ダビデの詩篇などを読みつつ、朝、神の恵みに豊かにされ平安な思いで過ごしたかと思えば、夕方には悲しみで打ちひしがれる。私のような凡人とははるかにかけ離れた重い責任と、困難な政治状況を担わせられ、その上、ゆたかな詩人の魂を内面に宿していたダビデだからこその心の揺れかもしれない。でも私だって時にはそうです。心は揺れ、判断はつかず、思い迷うのです。

きっとそれはダビデ独り、私独りの思いではなく、だれにも、時には押し寄せてくる感情ではないでしょうか。だからこそ、人には自分が何に拠って立っているかを知る必要があります。神を信じる信仰の心が必要なのです。激しく動揺する人生模様が一方で避けられないと同時に、人にはそうした折に、ますます動くことのない、一筋の信仰の心に生きることが必要なのです。

ダビデの時代からほぼ1千年後、キリストの弟子たちは激しい弾圧・迫害に見舞われていました。そのとき使徒パウロは人々に語りました。

「投獄と苦難が私を待ち受けていることだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら惜しいとは思いません。」

使徒言行録 20章23・24節

やっと生まれかけた教会の宣教に召されたパウロが果たさねばならない働きは他の誰にも取って代わることは出来なかったものです。その苦難の時代の使徒たち、信徒達の直面していた困難さはたとえようもなかった程のものでしょう。きっと信仰から離れざるを得なかった人々も多かったに違いありません。でも、このパウロの言葉の平安と確信に満ちたトーンは一体どこから来るものでしょう。そして実際この生まれたばかりの教会には、背教と自暴自棄に落ちる人々より、圧倒的に新たに信仰に加わる人々のほうがはるかに多かったのです。

多くの人々は時代の潮流に流されます。社会が暗澹とすれば、社会と共に暗澹とします。権力者が軍国化すれば、民も軍国化し、社会がバブルといえば人々もバブルを受け入れます。
あるとき私は乗っていたエレヴェーターの照明が切れたのです。光という光が消え、自分の手さえも見えなくなりなったことがあります。1階にたどり着くまでの数十秒の完璧な闇。短くとも恐れに満ちたときでした。限られた、短い暗闇でしたが、パウロや信徒達が味わったのは、終わりの見えない闇の時代でした。たとえ漆黒のように暗い世界が今展開しているとしても、ダビデのように祈り、パウロのように生きることは出来るのです。それは信仰に生きるものだけに与えられた特別な神の賜物だからです。

(2012年04月29日 週報より)

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