主に、帰る

イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ。
あなたは咎につまずき、悪の中にいる。誓いの言葉を携え 主に立ち帰って言え。
「すべての悪を取り去り 恵みをください。この唇をもって誓ったことを果たします。」

ホセア書14:2-3

ここで<あなたの神のもとへ帰れ。すべての悪を取り去れ。>と預言者ホセアを通してかけられているのはアッシリヤ人でも、バビロニア人でもなく、イスラエル民族そのものにむかって言われるのです。この言葉は次のように続きます。「私たちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを 再び私たちの神とは呼びません。親を失ったものはあなたにこそ憐れみを見出します。」
イスラエルはもはや<主の民らしさ>をすっかり失っていたのです。

実はイスラエル自身は自らが、そう言われねばならないほど神から離れている状態にあるなどとは思っていなかったのです。自意識としてはむしろ「われわれこそ選ばれた神の民、主の民なのだ」という確信に立っていました。しかし神の目から見れば、人々は罪を犯し、悪に染まっていました。軍馬に乗り、戦闘に明け暮れていました。神ならぬ偶像を神としていました。神の目には、イスラエルは神の民らしさなど、いつの間にかどこかに置き忘れてしまっているとしか見えなかったのです。確かにイスラエル人たちは、神殿での礼拝をおこない、見たところは宗教心あふれる、信仰の民と見えたことです。我々は神に選ばれた唯一の<神の民>という絶対的確信を持っていました。

イスラエルが選ばれたのは、他民族に先立ってイスラエルが世界の祝福の基いとなるためでした。イスラエルをいつくしみ愛する神は、世界を祝福する神にほかなりません。エルサレムにある神殿は、世界の民族に向かって開かれ、神の祝福はエルサレム神殿から世界に注がれるはずでした。しかしイスラエル人たちは、神殿から異邦人を追い出し非ユダヤ人は神殿の外周近くには入れましたが、肝心の神殿の中に入ることは厳しく禁じられ、その禁を破れば殺されねばなりませんでした。エルサレム神殿こそすべての国籍、身分、肌の色による差別の一切が撤去されねばならない場所でしたが、そうはならなかったのです。

差別は政治の問題ですが、政治も目に見えない人々の心の問題が複雑に影響しあうことがあります。アメリカの黒人差別の歴史も、南アフリカのアパルトヘイトも、政治や経済の仕組みと共に人々の心の在り方が絡み合って、乗り越えるのに途方もない時間がかかったとも考えられます。だからこそ信仰的決断が政治や経済の利害を超えさせる必要が求められるのです。

見えない神だけに、神を信頼することはある意味<冒険的>です。しかも人は神の意志と言いつつ、その人自身の考えや、願望を神の意志と言い換えるすり替えだって可能です。神の意志を神の意志と受け止めるには不断に神の意志を問う心が求められます。

ホセアの呼びかけは、時代をとわず信仰者の心を探るような気がします。

(2015年02月15日 週報より)

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