平和に生きる心
3月の地震で、わたしの部屋も散乱した本の片付けにだいぶ時間を要しました。たいした本の数ではありませんが、それでも次から次に押し込むだけにしていた本を多少分類しながら、納めなおすのに数日はかかったのです。手間はかかりましたが、なくなっていたと思っていた何冊かの本も出てきました。その本の中で、1967年刊の現代の信仰と題するなつかしい本がでてきました。<ブーバー><バルト><マルセル><ロマドカ><モーリアック>などの名著が収められています。
じつはこの本を書店で買った私の動機は、表紙裏の写真に心を動かされたからです。「神父の救援」と名づけられたその写真。1962年ヴェネズェラのカラカスで起こった軍の反乱に際し、シャッターの下りた建物を背にひとりの神父が、たぶん弾丸が乱れ飛んでいるだろう緊張した状況の中で、膝まづき、瀕死の重傷を負っている兵士を両手で抱え、周囲で発砲をしている兵達に「発砲をやめよ」と叫びながら、最後の赦免を与えている写真があります。ことによると次の瞬間には、神父自身が狙撃されてしまうかもしれない。しかし自らの身の危険をかえりみず、兵士の魂の救済のためにそこに駆けつけ、兵士を抱き上げるこの神父の姿に、たぶん20歳過ぎの私は心打たれたのです。
かつてスペイン内乱においても、最終的に勝利を得たフランコ将軍側のファシスト側と共和国派の行きすぎた暴力の応酬の中で、多くの人々が犠牲になりました。スペインのカトリック教会はフランコ将軍側につき、教会と神父たちは、やはり逆の立場から敵視されました。暴力は暴力を生み、多くの神父たちが殺戮されたのでした。しかし捕らえられ、撃ち殺されることになった神父たちはしばしば、自分たちを殺戮することになったテロリスト達に「しばらく銃を置き、ひざまづき、祝福と許しを得るように。」と勧め、人々を赦し、祝福をあたえた後、射殺されていったと伝えられています。
こうした行動の原点に、イエス・キリストがいます。イエスは殴られても殴り返さず、逮捕され、鞭打たれ、つばを吐きかけられても無言で耐え、ついには御自らを十字架に釘付けしようとする兵士のために祈りました。「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からないのです。」と。イエスのこの上なく有名な言葉。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
イエスキリストに従うことは、何らかの軛を負うことでもある。キリスト教はエゴセントリックなご利益宗教ではないからです。ですがこの方にどこまでも従おうと志すことは、そこに人間性の奇跡としか言いようのない勇敢で美しい出来事が立ち起こるのです。そしてこのイエスの柔和な心は、世界に敵を友人に変える力であることを信じます。
(2011年06月19日 週報より)