信仰に生きる

主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに生かせてください。イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧りみる者は、神の国にふさわしくない。」といわれた。

ルカ9:61-62

牛や馬に鋤を引かせて、耕作をする姿など今の日本ではどこにも見られないだろう。けれど一世代前ならあちこちで見られた光景だったかもしれない。ましてやイエスの時代のパレスチナなら、日常の風景だったと思われます。牛馬に鋤を引かせる農夫はまっすぐ前を見なければならないでしょう。主イエスはイエスの弟子として歩むものに、鋤に手をかけながら、後ろを見てはならない、と語られました。

畑で牛馬のコントロールがつかなくて、多少、畝が曲がっただけなら、ただちにやり直せばよい。でも、こと伝道や、信念の問題になると、事は簡単ではなくなる。というのも、信仰の信念というものは、意外に崩れやすいもののように思うからです。かつて洗礼を受けた人々が、すべて信仰を保っていれば、いまごろ日本はキリスト教国になっていたのかもしれません。キリスト教信仰を捨てはしなくても、卒業してしまったような思いになっている人は少なくないのです。
戦前の由木教会には200人以上の人々が集っていたと聞きます。私が最初伝道を始めたとき、何人か、かつての信者だった老人達とお目にかかったことがあります。いったん祈りをすれば、すばらしい祈りをするこれらの人々。でも自宅を訪ねると、庭の片隅に赤い小さな鳥居を掲げている人もいました。典型的な先祖帰りをしたと思われた。戦争、そして弾圧という歴史の激動の中で、当時の教会員の方々は苦しみ、そして悩んだ結果でした。しかしこれも<鋤に手をかけて、後ろを振り向いた>ひとつのかたちといえなくはありません。
ただ、これは決して他人事ではない。心悩ます問題に、悶々としながら朝を迎え、いつしか祈りどころではなかった、ということは誰にもあるのではないだろうか。確かに様々なやむをえない理由は掲げられる。しかし、信仰生活はどこかに後退してしまう現実。

牧師や伝道者は、つい<使命>と言う言葉が好きです(〔私は神からの生涯の使命をいただいて・・・での伝道に着手します〕あるいは 〔・・・に宣教師としてでかけます〕)
しかし数年を経て、何の説明もなく、使命は、ひそかに、勝手に放棄されると言うことがあります。

信仰に立ち続けるということは、つまりはとても困難なことといえるのかもしれません。わたしたちは日毎に、信仰の祈りを捧げつつ、週ごとに主の礼拝に集い続けています。それはやはり主を見失わないようにと必死に歩んでいるからです。そうした思いのあるところに、神はみわざを行われる、と言えるのではないだろうか。こうして信仰生活を歩み続けていることは、前に進み行くイエスキリストを見失うまいと、自分に言い聞かせている結果ではないだろうか。
政治家達は離合集散に日々追われます。しかしわたしたちは先立ちゆく主イエスにしっかりと目を注ぎ続けたいと思います。ひとは、これこそ私の信念として掲げた信念なり、信仰を、看板をはずすように取り下げててはならないのです。人からどう見られようと、思われようとも。

(2010年09月05日 週報より)

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