私に出会ってくださる主イエス
今日は復活祭。世界中で主の復活が祝われます。
イエスキリストの復活とはいったい何であったのかは、多くの人々の関心事です。聖書に書かれている通りの、まさに事実として起こった出来事なのか、そうでないのか。歴史的事実なのかどうかを問う人は多くいます。復活の出来事は福音書に述べられている出来事ですが、マグダラのマリアらが墓に行ったときに、そこにいた天使は、マルコ福音書(16 : 5)とマタイ福音書(28 : 2)では一人ですが、ルカ福音書(24 : 2)では二人いた事になっています。また復活された主イエスはマタイ福音書(28 : 16)ではまずガリラヤにお出でになりましたが、ルカ福音書(24章)では主イエスと弟子たちはエルサレム周辺で過ごされています。事実は一つしかないのですから、どちらかが誤まりか、両方ちがうのか、そのどちらか、と言う事もできます。
現代は実証主義の時代です。あったのか、なかったのか。ゼロか、1かを、突き止めずにはおかないのです。そうした方法でキリストの復活を突き止めようとすると、事実に到達することは難しくなるのかもしれません。しかし一方で、弟子たちは復活した主イエスにお会いしたと口々に語ります。出来事の詳細は、多少のばらつきがありますが、出合ったという証言には事欠きません。
主イエスの復活の出来事から数年後、生まれたばかりのキリスト教会にとって手に負えない迫害者サウル・後の日の宣教者パウロが劇的な回心を経験します。きっかけはパウロ本人もすこしも願ってもいなかった復活した主イエスとの突然の出会いでした。まばゆいばかりの光とその声を聴いたというのです。ですが同行者達にそれは届いていないのです。
しかしそうして復活した主イエスに出会ってしまったパウロの生涯は、180度どころかその出来事を経てまったく変容するのです。思いもよらない生涯、使徒パウロの誕生となるのです。マグダラのマリアを始め、ペトロ、ヨハネ、ヤコブなど、それぞれの弟子達の生涯はまったく別のものと変えられたのです。どのように出会ったか、パウロの同行者達は光を見たのか、音を聞いたのか、出来事を述べる使徒言行録でさえどちらだったかがちがいます。でもそれはパウロの精神的混乱による幻聴などではなく、確かに耳にし、目撃し、彼はすばらしい人生を歩むことになりました。
なぜ主イエスはこの人々に自らを現されたのでしょう。彼にとってイエスが、どれ程かけがえない存在なのか<その度合い>で自らを現される様に思います。マグダラのマリアにとって、主イエスはすべてでした。主イエスが失われることは、彼女自身がなくなるも同然でした。ペトロにとっても、あの裏切りのまま、主イエスを見失うことは彼自身にとってすら、人生の終わりでした。再び捨てたはずの漁師の仕事に戻れるわけもありませんでした。
パウロも本来は知的で優しい心情の青年がユダヤ原理主義の中で、そうであってはならないテロリズムにとらわれていたのです。彼も自覚しなかった内奥の叫びが主イエスにはとどいていたのです。
弟子達には、復活したイエスと出会った<私の経験>なるものがあるのではないでしょうか。弟子達に対してのみならず、主イエスは我われの人生に、深い関心と理解を持たれ、こちらが自覚せずにも、そっと出会ってくださる瞬間があるかもしれません。聖書の知識や神学的な正当性がいかほど豊かでも、この主イエスの出会いもなく、人生を否定的に生きているのであれば空しいものです。
問題多い人生を、満ちたりて、肯定的に見つめられるとすれば、それは神のゆえであり、主がわたしたちを愛していて下さることの結果と言えます。いっそう切実に神を愛し、人々へのあたたかい思いやりに満ちて歩むことができれば、人生はどれ程豊かなものとされるのではないでしょうか。
(2008年03月23日 週報より)