信仰に生きよう

昨日電車に乗って、ふと南大沢方面を見渡しましたら、すでに街路樹が紅葉し始めていました。家の中ではまだTシャツ1枚だというのに、時は押しとどめようもなく進んでいきます。今年は大きな出来事が多く、歴史の転換点、危機のときという印象が強く、時の流れについていけないほどの思いがつよいのです。日本社会のモラルの崩壊もはなはだしく、子供による親殺し、また親からの凄惨な暴力も目に付きます。少年たちは将来に夢を描きにくくなっていると指摘する人も少なくありません。こうした時代だからこそ<信仰と希望と愛>に生きることは意味があります。

かつてできたばかりの初代教会は、決して出来上がった理想的な教会とは言えませんでした。不道徳極まりないローマ社会に生まれ育った人々が回心してキリスト者になりました。人間の習慣などは一気に変わるはずもありません。ユダヤ教からの反発があり、皇帝礼拝に傾くローマ社会の無理解は巨大でした。当時の社会でキリスト教の伝道は到底受け入れられないのではと考えられても不思議はありません。ところが事態は逆でした。キリストの福音は驚くほど多くの人から受け入れられたのです。教会はたちまちローマ帝国全体に広まっていったのです。奴隷に支えられる暗い社会の中で、奴隷から社会的に高い地位にある人まで、福音は受け止められていきました。 キリスト者は迫害に直面しながら、追われる様に新しい場所にむかって福音を伝えていきました。

ただ一方で信仰から離脱する人もいたでしょう。
<デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい・・・>2テモテ4:10
パウロでさえもこうした別れを味わったのです。どんなに成功を収めた人でも、挫折を経験することはあります。信仰生活を歩むことについても、分かっているようで、ひとは同時に未熟です。キリストを3度否定したペトロはそれでも、使徒たちの代表でした。のちにアンテオケの教会で律法主義に妥協しかけて、パウロに激しく批判されました。最晩年に迫害を恐れてローマ市外へと逃げ出そうとして、ペトロに代わって再度十字架にかかろうとするキリストに出あったという伝説があります。そこにクオ・バデス・ドミネ <主よ、いずこへ>という名前の教会が建っているそうです。率直に自らの失敗を認めようとするやわらかい心。こうした信仰こそ偉大で、勇気ある信仰です。それは未熟さに居直ることではありません。神の赦しを信じて出直すことです。ひたむきに神の御心を信じて再出発することが、人生には可能なのです。

今わたしたちの社会に著しく欠けるのは希望に生きる心です。希望が見出せないところには混沌しかありません。混沌の闇は深まるばかりです。たとえ失敗はあるとも、一歩もひかない信仰の心こそ、この闇を越えるのです。

(2006年10月15日 週報より)

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