大きな喜びにつつまれて

ルカによる福音書 2:1-20

人の生というものは、明日を知らない儚さと隣り合わせ。でもその儚さは、むなしくはない、軽くもない。儚いからこそ、ますます、かけがえがないし、重いことだと感じたのです。人が生きるということは、いつも課題や不安に迫られることです。問題を抱えていればこそ、いかにしてこれを克服するか必死にならざるを得ません。それは結果として自分自身をいかに成長させていくかということですし、そこにはなんらかの努力あります。

病を得て病床でこの時を迎えている人もいますし、外出が出来ない人も何人もいます。でも、ここには来られないけれど、私たちの祈りがその方に届き、また体を病みつつも、この礼拝を覚えているなら、友の心も祈りも行き交っているなら、かれらも共にここにいる、その人々もここに参加して、この場にいてこのキリストの御降誕をともに祝い喜んでいると考えることは許されると思います。

わたしは以前クリスマスの案内チラシに次のように書きました。《クリスマス、クリスマスというけれど、それは家族がいて、だんらんのあっての話しです。今年、仕事を失った! 愛する家族がいなくなった! 長年連れ添ったペットが死んだ! 住む家を失ってしまった! 進んだガンだと宣告された! 数え切れないこうした人々が、こうしてクリスマスを迎えています。》

聖書に述べられているクリスマスの出来事においても不安と恐れがあります。登場するすべての人々に不安や恐れがありました。幼子イエスの御降誕の前に、洗礼者ヨハネの誕生物語が述べられますが、ヨハネの誕生を伝えられた父ザカリヤは天使の現われを前にして「不安になり、恐怖の念に襲われた。」(1:12)と述べられています。御子イエスを宿すことになったマリアも恐れがありました。周囲の人々にとってはだれが父親とも知れない子を宿すことは、マリアにとっても、きわめて不都合なことです。そのマリアに天使が現れて「マリア、恐れることはない。」(1:30)と語りかけています。夫ヨセフの戸惑いはマリア以上のものがあった。彼に対しては「恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。」(マタイ 1:20)

マタイ福音書に登場する占星術の学者達も心の内に大きな不安や恐れを抱えながら、遠い東(これはペルシャであろうといわれています。ペルシャといえば今でいえばイランです。オリエントからインド近くまでです)からベツレヘムへの旅に出で立ち、また旅の途中も、本当に救い主に会えるかどうか、不安と恐れがあったことです。野にいた羊飼いにも天使が現われ「非常に恐れた」(2:9)とあります。またマタイ福音書でヘロデ王やエルサレムの住民達が東からの学者の訪問を受け「不安を抱いた。」(2:3)

クリスマスの出来事に登場する人々で、何らかの恐れを感じなかった人は、誰一人いなかったといえます。キリスト抜きのクリスマスにはそういうことはありませんが、聖書のクリスマスは、少なくも神の出来事なのです。何らかの形で、神が、登場人物たちに近づいた出来事でした。神がその人々の人生に介入する。接近することによって生ずる恐れや不安に包まれるのです。

人が神と出会うとき、恐れを覚えます。ヘロデのように恐怖の恐れであったり、畏敬の念(うやまいかしこむ)あったりします。しかしいずれにしても神が接近することによって、これらの人々を最初に襲ったのは、不安や恐怖という心の動きでした。クリスマスの出来事にはそうした恐れが付きまとうのです。

それは特殊な出来事ではなく、私たちも含め、人が神の迫りを感じて信仰にもとづく決断―たとえば洗礼を受けるなど―をするときや、神が私たちへ接近しているときに不安や恐れを覚えるのです。<YES>と答えるにしても<NO>と答えるにしても、不安や恐れが伴います。例えば、始めて教会の礼拝に参加するようなとき。それも神が近づく一つのきっかけ(出来事)ですが不安を覚えない人はいません。

なぜかというと。神が私たちの人生に近づき、介入されることによって、私たちはそれまでの人生を中断したり、古い生き方に決別することがありうるからです。人生を生きることに新しさが加えられることがありうるからです。そうしたことが起こることは私たちの人生に不利、不利益、損をすることでしょうか。そうではないと思います。私たちの人生は、ときおり神によって中断させられる必要があるのです。そのような中断によって、人生の真の主人は「自分」ではなく「神」であることが深々と納得させられ、何が我々の人生で第一のものなのかを明確にされるのです。

信仰的な視点から物を言えば、神といかなる関わりを持つのかは、その人の人間関係、他者との関わり方を決めるものとなります。神を自分に都合のいい存在としか理解していなければ、その人は他人をも、自分にとって都合の良いだけの存在、ただ利用する対象としか受け止めないのです。神を信じると言いながら、神の眼差しなんか気にするのは馬鹿らしいと考えている人は、他者の上に、自分が神のように君臨したがるのです。だからこそ、神の接近や介入による私たちの人生の中断は、新しい思いで神のもとに立ち返り、神において人生を再出発する良い機会、大切な機会となるのです。病気や家族の問題で人生が中断した。それは確かに不愉快な経験です。しかしそれはことによると、神が私たちを新しい生き方へと押し出す出来事かもしれないのです。不安や恐れは、神への賛美と感謝に変えられるきっかけ・可能性を持つのです。可能性ですから、それを生かすか、殺すかはその人次第のものです。無論ヘロデ王は、そこで感じた不安と恐れを、ベツレヘム近郊に住む2歳以下の子ども達の皆殺しという手段に訴えました。そうして神に示された機会に背を向けて、エゴによって新しくなる機会を踏み潰すこともできるのです。その両者の違い、あまりの大きな結果の違いは明らかです。

今、私たちの耳に神の招きが響いてくるなら、私たちが進むべき方向は神に近づく方向です。私たちの心に神の働きかけを感じ取れるなら、それをもみ消し、無視するのでなく、それに応答する方向を選ぼうではありませんか。その先に思いがけない喜びと神を賛美する世界が開かれるのです。クリスマスは、神が御子をこの世に遣わすと言う決断が現実の出来事となったときです。

羊飼いの前に現れた天使は「恐れるな」と言いつつ、「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。」(10,11)

天使は<今日>救い主がお生まれになったと言いました。この<今日>は2千年前のある日のことです。今正確に何年何月と特定することはできませんが、その日、主イエス・キリストが人としてお生まれになった。その日から新しい「時」が始まりました。神が私たちの生活領域に入られたのです。神は私たちの世界とは無縁の、はるかな天の高みにいて、見下ろすだけの世界におられるのでなく、神が私たちの身近におられて、求めれば必要な助けをすぐにでも与えてくださる、それがクリスマスの出来事です。

2000年前のある日の出来事でしたけれど、同じ出来事が今日、この日にも起こるのです。私たち一人ひとりが、イエス・キリストを、私の主、私の救い主として受け入れるとき、その人にはクリスマスの出来事が起こっているのです。

天使は<今日あなたがた民全体に、大きな喜びが与えられる>と羊飼いに語りましたが、その中には私たち自身も含まれていると考えられます。

聖書の物語は極論をすれば、アブラハムも、ダビデも、イスラエル民族も、イエスの弟子達も、ザアカイも、共通しているのは<再出発の物語>です。どんなに大きな傷を負っている人も、主の赦しの中で新しく生きる機会、新しい歩みに向かいはじめるチャンスが与えられていることです。どれほど汚れて、罪に深くなじんでいたとしても、主イエス・キリストはそこに光を差し入れて、私たちを新しく歩ませてくださるのです。

今、見通しのつかない不安が、世界をめぐっています。それはある意味では変革への機会なのです。そこから自分をただし、神によって変えていただく機会とするなら、人間の行き詰まりは、まさに神の機会なのです。冒頭に、人の生は儚いからこそ、かけがえがないと申しました。はかなく見える人間の生に神が乗り込むと、空しい、心もとないと思える人間の生が、神の永遠性につなげられていくのではないでしょうか。

(2021年12月19日 礼拝メッセージ)

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