捧げる心をもって

マタイによる福音書 2:1-12

主イエスのご生涯を記した福音書は主イエスの最後の3年間の記録です。けれどその福音書の半分の記述は最後の一週間。つまり受難週の記述に集中しています。マタイとルカは、それでもなお誕生の物語を美しい物語として、私たちに書き残してくださいました。それは、たとえ生まれたばかりの嬰児(みどりご)のイエスであっても、この幼子に出会った人々の心に何かしらの反応を起こさせる…というメッセージが込められているからです。何かしらの決断を呼び覚ますのです。イエスについてただ彼を知るとか、眺めるということはあり得ないのです。イエスにお会いした人は何らかの決断や行動や変化を迫られる。ただそれが、心に何らかの化学変化が起こるのです。

幼子イエスの誕生が歴史を二分するように、神の御心を世に知らせるためにこの世に来られた。たとえ幼子であったとしても様々な反応を示すのです。それは一方で主イエスに出会って大きな喜びの反応を示す人々があり、他方、生まれたばかりの幼子に極端な拒否感を表すヘロデ王のような人もいました。

まず登場するのは東の占星術の学者でした。彼らは新しく輝く星を見つけたのです。その時代確かにローマは無敵でしたが、国は共和制から帝国制度へと大きく舵を切っていました。その結果ネロやカリギュラといったあまりに暴力的で愚かな人間も皇帝となっていきました。そうした時代に、この占星術師らはある特別に輝く星を見たのでした。それを彼らはユダヤにおける王の誕生のしるしととって、王の誕生なら王宮のあるエルサレムであろうとして出かけてきたのです。

イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。マタイ福音書は2章1節で救い主イエスキリストの誕生の時期と場所を大まかに報告しています。これに続いてこの生れた御子を「ユダヤ人の王としての王」として最初に拝んだのは東の方から来た占星術の学者たちだったと記しています。

東の方からエルサレムにやってきた占星術の学者たちとは、一体どういう人たちだったのでしょう。東、エルサレムから見て東の方です。よく言われますがそれはバビロニヤ、ペルシャです。ユダヤ人の言い方では異教の地。単なる他国ではなく、異なった宗教、間違った宗教を信じている人々。そんな感覚が感じ取れます。しかも数百前にはユダヤの先祖たちが数珠つなぎにされて捕囚として連れて行かれた国。ユダヤ人たちからみれば偶像崇拝や魔術、占いが盛んな国です。しかし歴史をひも解けば実際にはハムラビ法典を作り、古代文明を発展させ、運勢もうらないましたが占星術は言い換えれば天文学の研究者でもあった。

この人々はユダヤの文献にも通じており、ある時、特別な星の動きを見るなかにユダヤ人の王となる方が生まれたことを知ったのでした。ユダヤとバビロン、ペルシャは距離的に遠くありません。戦争や抑圧もありましたが、平和の交流はもっとあったに違いないのです。しかしユダヤ人の王として生まれたのだから“エルサレム”と考えた彼らの考えは間違っていました。その思い込みは、先入観によるものでした。東で見た星こそ王の誕生を示すと考えたところまでは良かったのでしょうが、その星はエルサレムには輝いていなかったのです。

エルサレムで、東から来た占星術師たちはまずヘロデの王宮を訪ねました。そして彼らは歓迎されたようです。しかし占星術師たちはきっと呆気にとられた。ユダヤ人の王となる方が生まれた。きっとユダヤ中が沸き立っているかもしれない。現代ですらイギリスで国王になる子供が生まれたとなれば国家的関心があります。エルサレムは大変な喜びに沸き立っているに違いない。この方の星が現れたくらいだから、この方は単なる平凡な王ではない。それは外国人である占星術師たちすら礼拝に行く価値があるのだ。彼らがわざわざ黄金、乳香、没薬を手にして、はるかな距離をおそらく砂漠を超えてやってきた。

ヘロデ王はともかく不安にあおられました。そしてエルサレム中の祭司長や律法学者たちを皆集め、メシアはどこに生まれるかを問いただしました。そんなことを問いただされたら、どんなにか答えに困るだろうかと心配になりますが、宗教家たちは直ちにその場で返答します。あまりにあっけないほどの敏捷さで答えてくれるのです。律法学者が探し当てたのが旧約聖書ミカ書5章1節の言葉でした。

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さきもの。おまえのなかから、わたしのために、イスラエルを治めるものが出る。」

その町ベツレヘムはエルサレムに隠れるようにして存在する町です。ベツレヘムとは小ささの象徴と言えます。神は世界的大都市エルサレムで生れるのでなく、いと小さき町でお生まれになった。神は小ささを大切にする方、聖書に現れるイスラエルの神はこの世における小ささ、貧しさ、低さを退けないむしろそうした人々、を通して神の技をお勧めになる方ではないでしょうか。

そもイスラエル民族自身が選ばれたのがその弱さにありました。<申命記7:7-8>神が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他の度の民より持数が多かったからではない。あなたたちはどの民より貧弱だった。ただあなたに対する愛のゆえに…あなたたちは選ばれた。

新約聖書のクリスマス・ストーリーで人間的なかかわりの中でイエスの最も近い人々はマリアとその夫ヨセフです。マタイ1章ではヨセフに、神の力によって―つまり聖霊によって―マリアに男の子が生まれると告げられました。それは生まれる幼子が神の子であるということです。神の子の誕生には神の子らしい栄光があってもいいのです。

けれど神のお考えはそうではなかった。

神の子は一人の嬰児(みどりご)として貧しい女性から生まれることが大切だった。それも極めて貧しく場所はホテルの施設だったけれど、客間でなく、家畜小屋の飼い葉おけに寝かされることに意味があった。主イエスは王の中の王、しかし進んで私たちのために貧しくなられた。主の中の主であったはずです。ただ、地上の御子のための親となるべく選ばれたヨセフとマリアは、どんなに苦しみ多い立場を与えられたことになったでしょう。ヨセフにしてみれば婚約者が身ごもったことで婚約を解消することを、一時は心ひそかに決めてさえいたのです。

けれどヨセフもマリアは、御使いの御告げを信じてその困難な役割を引き受ける決心をした。独裁者にとってライバルになる可能性をもつ子供の命を奪うことは自らの安全確保にとって必須と考えられていたのです。

しかしマリアはイエスの母となることで途方もない違和感と戸惑いを感じ続けたでしょう。とり分け主イエスが30歳を越していわゆる宣教に立ち上がった。30歳を越してからは違和感と戸惑いは増すばかりだったイエスが十字架にかかることになった。違和感と戸惑いどころではなかった。でもじっとイエスを見つめ続けた。そしてその事実を心のひだにしまった。そしてイエスの復活。昇天を経てイエスに誰であるかをしっかりと心にしまい込んだ。それがマリアの信仰生活だった。我々の信仰生活も何がしかの違和感や戸惑い、居心地の悪さを味わうこともあるかもしれない。それが信仰の確信への道であることもあるのではないか。

(2020年12月27日 礼拝メッセージ)

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