時、みちて

ルカによる福音書 2:1-7

先ほど読んでいただいた聖書のクリスマスエピソードの一節ですが、福音書を書いたルカの書き方は「これは皇帝がアウグストゥスの治世の出来事で、シリア州の総督はキレニウスだった時」というようにその時代の状況、事実を淡々と述べるのです。つまり当時地中海世界を政治的に支配していたのはローマ皇帝アウグストゥスであり、その勅令は、ローマからはるか離れた辺境といえるユダヤにいた貧しいヨセフとマリアもいやおうなしに、ヨセフも生まれ故郷のベツレヘムに帰らねばならなかった。あろうことに婚約者のマリアは出産を控えていたのです。それも、今日か、明日かというそのときに、皇帝アウグストの命令で、彼らはつらい、無意味な旅を強いられていた・・・と思っていただろう。しかしたぶんルカは淡々とアウグストの巨大な皇帝権力が、そんな辺境の一貧しい市民を無慈悲に動かしたと書きながら、やはりそこに伸べられた見えざる神の御手こそ、そのアウグストを動かしていた。歴史の真の主役はローマ皇帝でなく、神その方であったと描いていると思います。

人口調査という皇帝の勅令の目的は、税金を取り立てるためであり、もう一つは徴兵のためです。ローマ軍は多国籍部隊です。当時の世界中から、ローマ軍は構成されていました。ナザレにいたヨセフ、マリアも登録のためにベツレヘムまで旅をしなければならなかった。ついでに言えばナザレもベツレヘムも、今ではヨルダン川西岸区域―つまりはパレスチナ自治区―にあり、そこにはパレスチナ人の教会があります。

マリアはナザレからベツレヘムまでどのように進んで行ったのでしょう。歩ける距離で離し、さりとてたとえロバの背中に乗ったとしても、それはとてもつらい道のりだったでしょうし、ナザレからベツレヘムまでは直線距離で115キロ。1日20キロが限界だとすれば、一週間近くの旅を強いられて、ベツレヘムに着くや否やマリアは出産を迎えたのです。クリスマスに際して野にいた羊飼いたちに、天子は「民全体に与えられる大きな喜び」(10)と伝えましたが、ヨセフとマリアにとっては、そこでは大きな喜びどころではなく、おおいなる苦痛、おおいなる辛さでしかなかったはずです。

しかしそれは、それこそクリスマスの出来事でした。この世の力、状況が強いる事柄は、この目には少しも好ましくありません。しかしその事柄の背後で、くすしい神の計画が実現され、進行すると言うことがあると言うことです。

預言者イザヤの有名な言葉、このクリスマス・アドヴェントの中で何度も読まれた言葉ですが、イザヤ書9:5「一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちに与えられた。」
そのとき同時に語られている時代状況に目をとめると、9:1「闇の中を歩む民はおおいなる光を見、死の影の地に住むものの上に光が輝いた。」
暗闇や苦しみが時代が極まろうとするところに、おおいなる光が現れる。皇帝アウグストゥスの支配が強まらんとするときに、御子イエスキリストが誕される。そこに支配者アウグストゥスをはるかに越えて、神の歴史支配が、力を増すのです。同様に9:6で、イザヤは「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と語りました。御子イエスキリストの誕生はあまりにみすぼらしい光景です。しかしそのつつましい誕生の姿、状況の中に、輝かしい神の御手を見ることが出来ます。

世界の片隅、辺境のパレスチナで、その中でもこれ以下の貧しき誕生があろうかと思える中での救い主の誕生。神は「どんな反対、不利をひっくりかえしても、その計画、御心を実現する」と見ることが出来ます。するとある人々はそうして神がコトを行うなら、われわれはナニをしても無駄ではないか。何をしても同じだ、何をしなくても同じと考える人もいるかもしれません。しかしこれは言えます。ヨセフとマリアが神を信じて、ナザレから旅立たなければ、この出来事は起こらなかった。当時、法の網から抜け出て生活する人はいくらでもいた。やはりヨセフ、マリアはアウグストゥスに従ったが、それは神に従うことの結果だったのです。

ヨセフ、マリアはベツレヘムに着きました。しかしベツレヘムは人口調査の登録のために大勢の人が集まっていた。その人々のために宿屋は人であふれかえっていた。どこもヨセフ、マリアを迎える場所がなかったと述べられています。たぶん宿泊代もいつもの何倍も高騰していたかもしれません。そこでマリアは家畜小屋で出産し、生まれた幼子イエスを飼い葉おけの中に寝かせなければならなかった。なんと言う現実だったでしょう。

しかしもっとも惨めなのは宿屋の側だといつも感じます。なぜ一人の女性の出産に家畜小屋なのか。人間は資本の論理といいますか、さらに金儲けが出来る方法から、コトを進めると言うことは一方の本能のようなものです。そしてこれも一つのしるしです。つまり人は主を迎え入れる心など持たない。まして困窮する他者をこころよく迎えることなどしないのです。富んでいる人も、貧しい人も自らのエゴや、物や金に執着するときに、人間の心を捨ててしまうのです。

人が主イエスキリスト以外の事柄や物に、心を奪われ自分自身が幸せだと感じられない。その時、心の中で自分がこんなに不遇なのは、夫のせいだ、親のせいだ、友人のせいだ、社会のせいだ。そんな人が時々出てきます。そういう人が、貧しさをばねに金持ちになってもカネと富の亡者であることにかわりはありません。ここにはそういう人はいませんが、でもそういう人は、じつは「あなたの心に主をむかえてください。あなたはその心に主を向かえるべきなのだと呼びかけられている。

嬰児イエスが置かれた飼い葉おけとは、馬がエサの飼い葉を食べる場所です。それは馬のよだれが染み付いている不潔なものです。勿論ヨセフは必死に綺麗に洗ったでしょうが・・・そこに主イエスは宿られた。この世における第一歩は飼い葉おけです。

でもそこにいくら貧しく見えたとしても 小さな善意を示す人間の一人や二人が登場しても悪くはありません。しかし彼ら一家を歓迎したのは馬や牛や羊だけだった。馬小屋の冷たさ、暗さ、不潔さは人々の心の暗さそのものでした。

われわれ人間の心には、底知れぬ暗さ、醜い部分があります。自己嫌悪を覚え、罪と恥じ以外の何物でもない部分があります。人の目には隠しておきたいほどのものです。といってもそれは見えてくるものですが・・・。

しかしそこを主は宿りの場としてくださると言うことかもしれません。そこを主はイエスキリストに出合わせてくださる場としてくださる。

私たちは救い主イエス・キリストを迎え入れるのに、まず、もっと自分の生活を美しく整えて、心もきれいにしなければならないとおもいます。もう少しましな姿になってからキリストのことを考える様にしようと思ったりします。でもそんな風に考える必要はなさそうです。御子イエスキリストは馬屋で生まれた。そこは新生児を寝かせるにはあまりにもふさわしくないところです。幼子イエスが置かれたのは飼い葉おけでした。馬がよだれを流しながら餌をくらう桶のようなものです。明かりもなく、暗く、寒い不潔で汚物もにおう場所。でも神はそこを選ばれた。人の歩みの中にはできれば隠しておきたい部分、失敗がある。われわれの歩みの中にも、あの時、なぜあんなことを口にしてしまったのだろうとか、あんなことをしでかしてしまったのか、というものがあるかもしれない。できれば心のひだにしまい込んでおきたいと思うこと。。。あります。行ってみれば私のベツレヘムという部分です。主イエスはそこに来られて私に出会って下さる。そこから私の救いを始めてくださるのです。ヨセフとマリアと幼子マリアはその晩、身を横たえる場所を探し求めていた。そしてやっと見つけたのが馬小屋の飼い葉おけでした。

人が誇らしげに思うところ、満足し充実している部分に、主を受け入れる場所はないのです。逆に時分の足りなさ、暗さ、恥じている部分を抱えている心こそ主が住まわれるのです。

私たちは今日「主イエスさま、私の心でよければ、どうぞここにお休みください」と祈るべきです。

(2020年12月20日 礼拝メッセージ)

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