キリストを宿す

エフェソの信徒への手紙 3:14-21

説教の冒頭をこうした題材で入るのは少しどうかと思いますが、先週、朝日新聞やインターネットのニュースにも大きく取り上げられていた 座間市の9人を死に至らしめた29歳の青年裁判が、明日30日から東京地裁立川支部で行われるとのことです。起訴状によると2017年8月から10月までの間に1都4県に住む15歳から26歳の男女9人(大半は女性)をアパートに誘いだして殺害し、遺体は自ら処理し、遺骨はいくつかのクーラーボックスに保管していたという恐るべき猟奇殺人事件が伝えられました。八王子市に居住していた若い女性も犠牲者の一人です、この容疑者に面会した記者たちが共通して書いている容疑者の印象が、彼は9人を殺害した犯人と思えないほど普通の青年という印象だというのです。彼は小学生の時には目立たない子だったが、中学校では委員会を任されていた。かわいくて飛び切り頭がよかった。父親からも愛されており素直で、まじめで、普通にいい人だった。その人がやがて引き起こしたこの驚くべき事件。以前の評判とはあまりにもかけ離れた凶悪な犯罪。そこから垣間見られる人間現存在の不思議さに記者たちは驚愕し、それを読む私も人間存在の不思議さに恐ろしさを覚えたのです。

ひとは個人としても、グループとしても後になって取り返しのつかないと感じる間違いを犯しうるものです。今日の聖書箇所エフェソ3:14-21を書いた使徒パウロは、ローマの信徒への手紙7:15-20で「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まない事を行っているとすれば、・・・」(15,18,19,20)

18節で、<わたしは自分うちには、善が住んでいない>と告白します。ここまできびしく自分自身の内面を見つめる人は、ごくまれだとは思います。ひとは他人に対して「彼のうちには、良心のかけらもない。」などと思いますが、自分自身についてはそこまで追い詰めることはしません。パウロはきわめて良心的な内面を持った存在の人でした。

しかしよくよく自分自身の心の中を見つめれば、<自分のうちには善なるものが住んでいない>人のこころには確かに意志の力がないではない。人には向上心も、仕事への熱意も、正義への思いがないではない。だが、何よりも自分のうちに働きかける罪の力が、人間のあらゆる意志の力をねじまげて、自分の意思を圧倒する。こうしたパウロの言葉は説得力を持ちます。

あちこちでいじめの事件が頻発します。いじめの怖いところはいじめのターゲットされた一人が、いじめの実行者だけでなく、クラス全員が、教師や、校長までが、いじめの実行者の側について、いじめられる側にも問題があるとして、犠牲者の立場に立たなくなることです。

かつて南アフリカのアパルトヘイト―人種差別において、南アフリカのヨハネスブルクに在住した宣教師が、黒人への差別や暴力、隔離は良くないけれど、そうせざるを得ない状況を作った黒人にも問題があるとつねづね言っていた言葉を忘れることが出来ません。彼女には目の前で行われている地上最悪の人権侵害であるアパルトヘイトは何も見えていなかったのです。

少し見方を変えれば、状況は明らかに見えるはずなのに、別に悪人だからではなく、正常な判断能力はあり、時には専門家でさえあっても、ことの本質が全く見えなくなることはあるのです。人間に対する罪の支配の恐ろしさを痛感するのです。

私は改めてこの世界、私たちの世界にイエスキリストがお出でになった事実に目を向けたいと思います。主イエスは私たちのこの世界に、神の形を捨てて、人間の姿となられ、私たちと共にその生涯を歩んでくださいます。彼には一切の罪がないままに、私たちの罪の責任を背負って、十字架につかれました。キリストは私たちの罪を背負って十字架につかねばなりませんでした。

過去にいったん犯してしまった罪は消えやしません。パウロもダビデも、後になってそのことでどれほど悩んだか判らないでしょう。しかし主イエスはその罪の責任をみずから引き受けて十字架につかれたのです。ですからひとがもし再生できるとすると、ここに、このキリストの十字架にその可能性が開けるのです。パウロはガラテヤ書2:19に「私はキリスト共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私のうちに生きているのである。」と書き送りました。

この言葉こそ、私たちが信仰者として生きると言うことです。信仰とは私たち自身の人生、生きかたではないのです。この私たちの人生をキリストが共に歩み続けてくださることへの、信頼と喜びにあふれた新たな出発が与えられるのです。

パウロは「私のうちには善なるものがない。」(ロマ7:18)と告白しました。私もわたしのうちには善なるものはないとしか言いようがないのです。しかしそういう人に、そういう人にこそ、キリストは共に歩んでくださるのです。しかも、キリストはその人の傍らに歩むというのでなく、パウロによれば「キリストが、私のうちに、生きておられる。」内側に住んでくださるのです。

エフェソ3章16,17に<内なるひと>と言う言葉が出てきます。

私たちのこころには内なる存在がある。私たちの心そのものですが、私たちの心の内面の最も深い部分。われわれの心の内側には、善なるものが宿っていないとパウロは言いました。確かに人の心は神から遠く離れている自分があります。しかしこのエフェソの3章は少し違います。

人の心はざまの事件のように、底知れず落ちるところまで落ちる。同時によくもなりうるのです。ローマ書、エフェソ書を書いたおなじ著者のパウロは、2コリント4:16で私たちの「内なるひと」は日ごとに新しくされるというのです。エフェソ3:17で「キリストがあなたがたの心に住む」といいました。世界はいつも混乱に満ち溢れています。罪と死にあふれる世界の中で、神さまは深い御心をもって、この世界を救い、また一人ひとりに神のみわざを実現なさいます。神さまはかつてひとと共にいき、歩むために大きな犠牲の中でイエスキリストを地上に送る決断をなさいましたが、いつでも、どんなところでも、そうした思いで、私たちに救いを実現する思いでいてくださる。

(2020年09月27日 礼拝メッセージ)

おすすめ