愛は決して滅びない

第一コリント 13章8~13

「愛は決して滅びない」
8節に述べられます。愛が、永遠に続くものであり、変わることがないという事をどんなに多くの人が望んだことでしょう。「この世の何がなくなったとしてもこの自分の愛だけは変わりはしない」。さらに「自分を愛してくれているこの愛はいつまでも続いてほしい」と誰もが願い、そして誓ったことです。

パウロは8節以後、愛の不滅を語ります。曰く 「愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益求めず、いらだたず、恨みを抱かない。…すべてを忍び、すべてを信じ、全てを望み、全てに耐える。」
変わることのない愛を憧れつつ、実際には多くの人々が愛に失望する人生を噛みしめます。

使徒パウロがこれ程の確信を持って語る愛とは普通に連想する愛とは普通の愛ではないのでしょう。つまりこれは神の愛であり神から与えられた愛のことを指しています。13章の冒頭から語られた愛は、変わることのない神の言葉について語られます。
(8節)「愛は決して滅びない。預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれよう。」
(13節)「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この3つはいつまでも残る。そのなかで最も大いなるものは、愛である。」

ここでは著者のパウロは愛について語ろうとします。愛といえば人の数ほどの愛があるでしょう。パウロは大人となった今は、幼子らしい愛を捨ててしまったと11節に言います。愛に大人らしい愛と、子供らしい愛があるのかわかりませんが、我々の愛もさほど完全な者かどうかよくわからなくなることがあったりします。人間の愛は時に、自己中心的であったり、それこそ幼子のようなわきまえ知らずの愛であったりもします。

ただここで11節半ば「成人した今、幼子のことを棄てた。」というのはいつのことでしょうか。それはおそらく18歳とか20歳とかの年齢のことを言っているのではないと思われます。<信仰をもった今は>という事でしょう。信仰をもって神の愛を知った人は信仰者らしく、他者との関わり方も、愛を込めた生き方になる。信仰に生きる人は、生きることそのものが、かつて生きてきた時と違ってくるのです。

信仰によって生きることを始めた人は一方で、この世の生活をしながら、神によって新しくされたもう一つの生活/世界を持つことに気づかされるはずです。信仰者と言えども罪人であり、今はもう神によって新しくされた人なのです。当然、神の愛を知ったのです。人と人との関わり合いも神の愛を知ったものとして神の愛を知らされ味わっているものとして。以前と変わらず同じ趣味を持っているが、神第一の生き方を志向しています。ただ信仰者は二つの世界を生きているものには違いない。この世の生活をしながら、神による世界に生かされている。義人にして罪びと。やがて来るべき世界を目指しながら、この世に仕えてゆきます。

そうであれば私たちが神を愛するとしたら不慣れで不十分という部分があるかもしれない。何年もキリスト者として歩んでいるのにまだ徹底しきれないのです。でも神を愛していないわけではないのです。
そうであれば今は何事も不完全であってもやむを得ない部分が残ります。神を信じているのに、信じているように事は進まない様に見えます。

信仰者はこの世と信仰の生活との二重の生活をしている…というのがパウロの主張です。それは物事を鏡に映しているようにおぼろげにしか神を見ていないのと同じなのだ。今は見えない、だがやがてその時が来れば顔と顔とを合わせるように神を見、神を愛することができる。
信仰と希望と愛という、この言わば三角関係は、互いに必要としあい、だからこそ生かしあう関係なのです。信仰がなければ愛は考えられないのです。信仰のない愛はないのです。

希望も同じです。7節に、「すべてを忍び、すべてを信じ、全てを望み、全てに耐える」とあります。忍ぶと耐えるとは望みえない状況がそこにあることです。それであれば余程の望みがなければなりません。
信仰と希望と愛は耐えがたい状況に忍耐をもたらし、望みえない状況に希望をとどけるのです、

事は一人の人の心に植えられたささやかな神の種です。世のあらゆるものが過去のものとなり、絶え果ててゆきます。けれどその中で愛が残ります。「愛は決して滅びない」(8節)

2022年9月11日 礼拝メッセージより

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