共に祝福を継ぐ

ペトロの手紙一 3:1-9

祝福を受け継ぐために、あなた方が召されたのである。

ペトロの手紙はまだ教会がスタートして程ない60年代はじめにポント、カパドキア、アジア、ビテニヤという小アジア・・・今でいうところのトルコに根付きつつあった教会が迫害に直面する状況を背景に、64年のペトロの皇帝ネロによる殉教死をまえにしてペトロが書き送った緊張感あふれる手紙がペトロ書簡というわけです。

今はコロナという苦難の状況が21世紀の教会に降りかかっています。感染症の行方がどうなっていくのか感染症学者でさえもよくわかっていません。病気の趨勢によっては公権力から集会禁止が命じられることだって起こり得ます。集まれてこそ教会なのにそれは教会にとっては致命的問題です。ちょうど一週間前の主日午後に永山教会で、来年2月に行われる、一致祈祷集会のための相談会がおこなわれました。一応メインの会議が終わったところで、それぞれの礼拝はどうなっていますかという話になったのです。由木教会はこうして礼拝堂での集会とズームを使った礼拝で、両方を加えると35名ほど。率にすると昨年比83%というところです。ところが永山教会も、高幡教会もズーム配信はしていないで昨年とほぼ同じくらいの礼拝出席とのことです。一つには礼拝出席者に高齢者がより多く、ズーム環境が取れないことがあるかもということに落ち着いたことでした。

何れにしても神を信じキリストを信じる信仰者も1世紀には迫害、21世紀にはコロナ感染症に直面し、いかに信仰者たらんと様々な判断が求められ、そしていずれも世の人々と、信仰者では同じはずがないし何をどう選び取るかが求められます。

ローマ12:2には
「あなた方はこの世にならってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神のみこころであるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
とパウロが述べている通りです。

私たちはそれを日常生活で実践すべきであると多くは命令形でペトロは書きます。聖書がそう訴え、挑戦するとも取れます。これはディスカウントできない要求なのです。

今日のペトロの手紙3章1節-9節は妻と夫へのすすめです。この手紙の中で教会生活にかかわること、身近な人々への善行(良き行い)の勧め、キリスト者として福音に生きる生き方などが書かれますが、2000年前の小アジアの男女関係、夫婦関係の中で起こることと、21世紀の日本の家庭で起こることは相当隔たりがあっても無理はないと思いますが。よくよく読めばそれほどかけ離れたことが言われているわけでもないのです。

3章の1節から9節までは夫婦の向かい合い方についての勧めが言われます。夫婦の関わり方について、何十年も前につい口にしてしまった言葉が心の奥底で石のように固いしこりとなって、夫婦は融合することの隔たりとなっているというようなことは時折あることです。なぜあんなことを言ってしまったのか、やってしまったのかということの一つや二つはおそらく誰にもあるのではないかと思います。

30年ほど前にポール・トゥルニエさんというスイス人の精神科医の方の本が盛んに読まれ、講演されました。質問を受け「夫婦喧嘩をされたことはありますか?」と聞れ「当然でしょう」と答えられ「殴ったことさえある」と告白したことがあります。トゥルニエ夫婦は日本で講演するほどの麗しい夫婦関係を作り上げていた人ですがその時は大きな驚きだったのです。トゥルニエは夫婦にいさかいがないことではなく、それをどう励ましと慰めにつなげるかが大切と述べたのです。熱烈な恋愛を経て、結婚式の司式を依頼され、やがて男の子と女の子が生まれ幸せいっぱいだと思っていた夫婦が、夫の妻への平手打ちで夫婦が離婚してしまったというケースを覚えています。日本では結婚式はキリスト教でというのがかなりのケースあります。形式的といわれますが、そこで牧師が二人のために語り、祈ることは十分に意味のあることと私は受け止めています。

キリスト教の結婚式の中心は、神が二人を出会わせられたというところにあります。二人の背後に立つ髪が二人を出会わせたのだ。それはキリスト教で式を挙げたか、あげなかったのかというのではありません。そうであるなら「今よりのち、良き日も悪しき日にも、富にも、貧しさにも、健やかな日にもやむときにも、あなたを愛し、死に至るまで真実をつくします。父と子と聖霊の名によってこの指輪をもってあなたを妻とし、わたしの者をあなたのものとします。」

そこでは新しいことが起こっているのです。ここまでは二人の愛、二人の選択、二人の願い、二人の意思と責任でした。けれどこの時、神が二人の結婚を意思されたのです。二人の結婚は神の意思となったのです。そこには神の祝福と共に二人には神の命令と約束が掛かっているのです。

初代教会にはクリスチャンホームはあまりなかった。結婚して二人が、あるいは片方がキリスト者となった。信仰に入り、キリストの恵みにあずかり、共に祝福を受け継ぐ者になっていった。彼らは結婚式をしなかったから、この恵みにあずからなかったのか? そうではなく、キリストの恵みにあずかることによって、命も、生活も、結婚も神の手から受け取りなおすのです。

共に生きるためには、祈りを欠かすわけにはいきません。祈るためには尊敬がなければ祈りの生活は続きません。敬愛という言葉がありますが尊敬と愛はつながるのです

人の心には様々に抑えられたもの。開くことのできないものががつまっています。それを導き、ほんとうに心を開いて分かち合うことができるようにするのは、そこに祈りにおいてです。そこには計り知れない赦しと祝福が収まっているからです。そこでは共に祝福を受け継ぐ者としてお互いの相手を見出すことができるからです。それは小さな限られた共同体だけではなく、8節9節をすべての共同体へのメンバーへの勧めと受け取ることができるからです。つまり私たちはともに祝福を受け継ぐために召され、共に祝福を受け継ぐ存在なのです。

家族という基本の小さな共同体であろうと、神の家全体であろうと、何年共にいようと、神ともにいます共同体は神の業を見ることができます。家庭にもし何らかの問題があろうと、あきらめることはない神が私たちの家族である限りは神の業が起こるのです。

(2020年09月20日 礼拝メッセージ)

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