戦後70年の記念日を迎え

今日は8月16日。終戦時、私は一歳にもなっていない赤ん坊だった。樺太からの引揚者。親が軍にかかわっていたからこそ無事に帰還できた。でも同じ年ごろの子供たちで、樺太に置き去りにされた人、あるいは亡くなった子供たち、どれほど多くいただろう。韓半島から連れてこられた多くの人々がいた。その大半の人々は帰還を許されず、戦後はソヴィエト人として過ごすしかなかった。

別に新しいことを書こうとしているわけではありません。1945年8月9日は、広島に続いて長崎に原爆が投下された日だった。そしてこの日、 同様に重大事が日本を見舞ったのです。つまりソヴィエトが日本に参戦し、強大なソヴィエト軍が旧満州をはじめカラフト、千島になだれ込んだのです。樺太地区から生還できたのは住民の4分の1程度と言われています。我が家はたまたまその4分の1に入っていた。でも生還できずに亡くなられた方、取り残された人々の恐怖と絶望感はどれほど大きかっただろうか。

父の友人たちでシベリアに抑留された人々は、少なくなかった。樺太でのソヴィエト軍との戦闘は8月11日から始まり、25日で終息した。この出来事(ソ連参戦)で昭和天皇の心が、敗戦受入れという決断に追い込まれたのが、いわゆる<ご聖断>です。そこから<戦争を始めたのは軍部><戦争を止めたのが昭和天皇によるご聖断>と伝えられるようになった。実は1945年には戦争はどうにもならない状況になっていたのはだれにも見えていた。すでにその前年からゼロ戦での特攻も人間魚雷での攻撃も始まっていた。そこでかつて日独伊防共協定を結び、日中戦争を開始した元首相である近衛文麿(戦後戦犯に問われ自害した)は1945年2月14日に昭和天皇に和平を提案したのです。

現人神である存在に敗戦を提案(当時は上奏と言った。)したのです。しかしその時点での昭和天皇の答えは「もう一度、戦果を挙げてから…」と近衛元首相の提案を拒絶したのです。もう一度赫々たる戦果を挙げて有利な条件を手にして、アメリカとの交渉をしよう。」と考えたのです。

その結果は恐ろしい死者数を生み出した。

上奏の二日後に、米軍は硫黄島での戦闘に入り日本兵23,000人の戦死者が出ました。
翌3月10日には東京大空襲が行われ10万人もの人々が空襲で焼かれ亡くなりました。
4月は沖縄戦が始まり軍人、民間17万人が命を落としました。このころになると日本中が空襲にさらされたのです。
8月2日、八王子市も空襲を受け、なんと67万発もの焼夷弾が投下され、450人の人々がなくなりました。
8月6日広島に原爆が投下され、14万の人々が命を絶たれました。
そして8月9日には長崎に原爆が投下され7万人の人々が犠牲になりました。
そしてこの日ソヴィエト軍が参戦し、この結果シベリアに抑留された人々だけで約60万人と推定されています。ソヴィエト参戦による死者数は今なお不明です。
少なくもこの聖断なるものが2月の時点でなされていれば、単純に足し算をしても100万人を超す恐ろしい犠牲者を出さないで済んだはずです。はっきり言えば聖断なるものなどなかったに等しいのです。

戦争はただただ醜く、してはならないもの。70年前に日本人はそう決断したのでした。平和を作り出すものであることはキリストの言葉です。70年前に比べれば、現代の戦闘機、戦車も、爆弾は、はるかに強力で、進化しています。現代の戦争ははるかに大規模で、いっそう残虐です。戦争の加害者にも、被害者にもならない。この点においては国連PKOで加害者になっているドイツより、日本が誇ってよい一点です。

まして私たちの子供たちや孫たちを戦場に立たせまい。これだけは譲れない一点です。

(2015年08月16日 週報より)

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