スクールカースト

最近の新聞で知った新しい言葉に「スクール・カースト」なるものがあります。学校で成績や運動能力、外見から一種の階級化が行なわれインドのカースト制度のような画然とした動かしがたい階層集団を作ってゆくもので、もともとはアメリカで始まった現実のようです。民主主義の進展とはかくも困難なことかとため息が出ます。
聖書の中にさまざまな職業、階層の人々が登場します。王、宗教家、貴族、官僚、商人、奴隷、物ごい。人々の目はそれなりの格付けとして映り、上下関係が築かれ、ひとは地位や財産、外見で人をを価値付けるのです。それはおろかで、誤まったことであることを知りつつ、ひとはそうした見方を変えることをしないで、21世紀をむかえ、スクールカーストの出現を許してしまっています。

かつてイエス・キリストは社会でのなかでもっとも小さきもの、差別された人々、病める者、重荷を持って苦労している人々に目をとめられました。主イエスは平等主義者ではありません。明らかに苦しんでいるもの、弱い者、小さくされている人々の友として、貧しいものの見方として自らの立場を置きました。

BC1000年頃までイスラエルに王はいませんでした。イスラエルか神が指導する神政国家でした。ですから預言者はいたものの、王はいなかったのです。しかし人々は王も軍隊もある普通の国家を求めたのです。預言者サムエルはやがて王制は強権と強制による軍国主義と重い税制を国民に強いるようになることを人々に説明しますが、それでもなお人々は周辺国家のような普通の国を求めます。そこで王として人々が求めたのは、サウルという名の「美しい若者で、彼の美しさに及ぶものはイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。」 彼は美しいだけでなく、謙遜で、忍耐深かったのです。しかしやがて王という権力の座に着くと、自らの権力保持が自己目的化するのです。

やがてサウルはおごり、高ぶりから王として失権します。老いたサムエルは次なる人物としてエッサイの子<エリアブ>を適任者として選び出します。そのとき神がいわれます。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)

そうして選ばれたのがダビデでした。しかしそのダビデは決して完全無欠の王ではありえませんでした。やはり王という権力の誘惑と欲望に破れ、数々の罪を犯したのです。けれど失敗という経験をどう生かすかこそ神が問うことです。かつてエジプトの王子としてほしいままに贅沢を手にしていたモーセは40歳にして殺人を犯し、砂漠に身を沈めるように羊飼いとして40年。そして80歳にして神は彼を出エジプトの大業に召しだします。

教会においては神はこの世で、なきに等しいもの、自らの限界を自覚する人をお選びになるのです。確かに神はそうして選ばれるのです。しかしその神の選びを、選ばれた側も感謝と謙遜をもって深く受け取るべきなのです。選びが特権になるときに、それは神の意向から離れてゆくのです。

(2013年03月24日 週報より)

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