キリストの愛に生かされて

ヨハネは「神は愛です。」(1ヨハネ4:16)と言いました。ヨハネの目を通して見えたイエスは、まさに愛そのものでした。それは価値なき者、反逆するもの、裏切るもの、不信実なものに、豊かに許しと命を注ぎ込む愛、そしてそれはイエスの十字架において頂点に上りつめる愛でした。その前の章には「イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(1ヨハネ3:16)とヨハネは書きました。思えば、ひとは誇るべき正義もあるわけではないのに、自分自身の正義への確信は絶対不動です。 又、人間の愛はじつはもろく、何か不都合なことが起こると手のひらを返したような冷酷さ、非情さが顔を出るのです。夫婦、兄弟などの近い関係であればあるほど、愛の強さは憎しみの強さとして現れることがあります。殺人事件のトップは家族間で起こるケースと言われます。

ところが神のわたしたちへの愛は、罪を許すのです。生まれながらの人間存在は愛するものとして生まれ変わらなければならない存在なのです。神に救われた人生は人を愛する生涯へと変容させます。逆に、明白で歴然とした罪の存在は、健全な人と人の関係を築くことへの障壁となることがあります。ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)と言います。キリストは最後の晩餐の席で、立って弟子たちの足を洗われました。そして言われました。「わたしがあなた方の足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗うべきである。」

教会はこの方の言葉の上に建てられています。キリスト者であるとは、主イエスによって足を洗われた存在ということです。わたしたちは様々な人々の善意と信仰に足を洗われたのです。様々な形の愛と奉仕に助けられて今があります。キリストはそう言う私たちに他者の足を洗えと言われます。足は全身を支える道具です。人が行くべき目的地に到達させるのも足です。足が清くされるとしたら確かに全身が清くなる・・・ということでしょうか。キリスト者は、キリストとともに、キリストにように生きうることを願うのです。

(2015年08月23日 週報より)

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