ともに歩む

フィリピ 4章1-3節

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時に、聖書は美しい本だといわれます。これを読むと心が清まるという人がいます。でも聖書を繰り返して読んでいると、むしろ聖書は、人間の心や生活そのものを徹底的に洗い出して、醜いものを掘り起こすのです。もし清さがあるとすると、❛そこから始まるから❜ということが言えるかもしれない。

フィリピ書4章1-3節が今日のお話の土台の部分です。聖書日課では<女性の働き>と題されています。この手紙が最高潮に達せんとするときに書かれたのが、エボディアとスントケという二人の女性への勧告でした。フィリピ書では、この二人の女性は教会にとって、かけがえのない存在と想像できます。けれどパウロが名前をあげて仲直りしてほしいと書いたことから、二人が仲たがいしていたということがわかります。ローマですでに獄中生活をしていたパウロは心を痛めていたのです。

教会は人が集まるところです。「教会」という言葉はエクレーシアというギリシャ語が語源と言われます。そも「集会」という意味だった。家庭でも職場でも、人が集まるところでは様々な意見の衝突が避けられません。お互いに言いたいことがありますし、考えることも大小さまざまに違うものです。ですから絶えず小さな衝突が繰り返されます。それらは一見大したことではないと思うこともできます。しかし小さなことでも積み重なると心の奥底によどみを作ります。

フィリピの手紙と言えば、2章5-11節が有名です。この文章が何のために書かれたかというと「キリストの恵みによって心を合わせてほしい。自分のことばかり考えないで、他人のことも考え、他人に敬意を表しなさい。」というメッセージを伝えるためです。そして、「キリストがどれほど謙遜であられたか。そのキリストを本当に信じるように」とキリスト賛歌を展開します。ここまで他人への敬意を忘れず仲良くしてほしいという表現が出てきたのは、今日われわれが読んでいる二人の女性のことが頭にあったと考えることもできます。

聖書のメッセージを一括りで言えば「我々が互いに愛し合うその愛が、我々の隣人に広げられてゆくということの大切さ」です。争うこと、対立することは、その正反対です。
例えば、いじめの問題。他人に意地悪なことをする、意地悪をする側に大多数が加わる。それはいじめをすること自体が大したことではないと考えている節があります。ノートに嫌味なことを書く、体操着を隠して捨ててしまう。クラスほぼ全員からの小さないじめであっても、やられる側にとっては致命的なダメージになることを自覚していない。もしそこに「隣人を愛そう!」という考え方、生き方、思想が生きていたら、いじめや不和が起こる余地はないでしょう。

3節に<真実の協力者よ>と呼びかけられている人がいます。この<協力者>という言葉ですが、私が読んでいる英語の聖書では true yokefellow と書かれています。Yoke とは、くび木のことで、ともにくび木を同じくする仲間・連れ合いのことをさします。何かが起こった時、欲しいのは真実な協力者、つまり争いをしている人と同じくび木でつながれる人です。外から見ればまったくつまらない対立であっても、そこに至るまでの経緯は二人でしかわからない複雑な事情があったからかもしれません。それが長年の積み重ねで、のっぴきならない対立を作り出すことだってあります。改めて、人はマタイ11章29節の御言葉に従って、自分自身が魂の安きを与えられ、許された罪びととして他者とくび木を負うことによって、はじめて何かを言う資格が与えられると思います。

エボディヤとシンティケは問題の人物というレッテルが張られてしまったかもしれません。少なくともフィリピ教会には少し迷惑をかけてしまったかもしれません。でも使徒パウロはフィリピ教会全体に、この二人を支えてほしいと懇願します。3節の最後に、エボディヤとシンティケは「福音のために私とともに戦ってくれた」とあります。フィリピの伝道の開始は困難でした。パウロは最初から投獄や迫害に直面しました。でもそうした中でパウロに協力した女性たちがいました。高価な紫布を販売するルディヤという女性もいました。信仰に熱心になることは大切ですが、熱心のあまり誰かと対立したり、誰かを批判したり、見下すような在り方は間違いでしょう。パウロは「同じ主を信じ、同じことを考えてほしい。そして和解してほしい」と言います。

エボディヤとシンティケは私自身かもしれません。もし助けが必要な誰かがいれば全力で手を貸し、助ける必要があります。教会にそうして愛が響き渡ると幸いだと思います。

2023年7月23日 礼拝メッセージより

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