キリストと私

ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。

ルカ23章23節

 主イエスは民衆に向かって福音を語り続け、民衆によって熱烈に歓迎され、そして最も助けの必要な人々を助け、心や体の病んでいる人々をいやされた。やがて弟子たちにも裏切られ、逃げられ、心変わりした数えきれないほどの民衆にも裏切られたのでした。熱情的な<ホサナ>の叫びによる歓迎は、今や<十字架につけよ>の叫びに代わったのでした。
 主イエスに対する無法な十字架刑は、宗教的には、祭司長、律法学者、ファリサイ人。法的にはローマ総督のピラトに責任があると思われます。しかしこれらの人々の煽動に乗せられ動かされた群衆は、事を動かす巨大な力となって主イエスを十字架につける側に追いやったのでした。その声は内心イエスの釈放さえ願っていたローマ総督ピラトの権力さえ粉砕するほどのものでした。主イエスの十字架刑はこの無責任な熱情が勝つことによって起こった出来事でした。
 私たちはその愚かさ、無責任さを非難します。軽蔑もします。けれど・・・誰が彼らの愚かさを笑えるでしょうか。群衆の中の一人は、ほかならぬこの私かもしれないからです。レンブラントは時々、キリストの十字架刑を描いた絵の中に自分の顔を描き込みました。わたしたちは昭和天皇の戦争責任を問います。しかし、もし一世代前に生を受けていたら「真珠湾で勝った」「シンガポールで勝った」と熱狂したのではないだろうか。

あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。
ああ、いま思い出すと
深い深い罪に
わたしはふるえてくる。

讃美歌21-306 あなたもそこにいたのか

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