神の支配の下に

ルカ福音書19章11-27節

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文脈はエリコの町でザアカイが回心をした直後の話とされています。主イエスの歩みがまっすぐに十字架への道行きとなる途上の出来事です。エルサレムまで二、三十キロの地点にありました。エルサレムに入るとなれば、イエスはいよいよ王の地位に就き、神の国がすぐにでも現れると人々は考えていた・・・。人々は主イエスの思いとは、かけ離れた期待感を寄せるのです。

この主イエスのたとえ話には多少の歴史的背景があると言われます。この頃のパレスチナはローマ帝国に支配下にありました。けれどローマ帝国より王の名を名乗ることが許され、統治・管理する権利はヘロデ大王が一手に握っていました。大王の死後パレスチナは3人の息子(アンティパス・フィリポ・アルケラオ)が3分割して支配しました。その中の一人アルケラオが、ローマ皇帝からヘロデに代わってユダヤ王の称号を受け取りたいと願い、抜け駆けをしてローマに出発したのです。しかしライヴァルによる密使が立てられ、アルケラオに王の称号を与えないように懇願したのです。願いはとおり、アルケラオは失意のうちに帰国したのです。その後アルケラオは反対派50人を処刑した。

本日のテキストは、「ある立派な家柄の人が王の位を受けて帰るために遠い国へ旅立った」で始まります。つまり主イエスのエルサレム入城は直ちに主が王となって神の国を開始するのでなく、まず王となるために遠い国に旅立つことだというのです。十字架にかかり、そして神の御許に行く。それから、やがて王として帰ってくるその時、最期の時が来て裁きがあり、神の国が来るという事を意味しています。
そこで王としての主イエスの再臨と神の国の出現を将来のこととして、主の弟子たちは、今をどう生きたらよいのかという問題が生じます。その問題に答えて、主イエスは10人の僕が1ムナずつのお金が託さるたとえを話された。

ここで弟子たちの課題が明らかになります。それは「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」。つまり託された1ムナで利益をあげることです。それが主イエスから彼らに与えられた使命でした、それがまた私たちに与えられた使命でもあります。1ムナは1タラントンの60分の1。今でいえば100円にも足りない金額です。
やがて王として帰ってきた方による決算、世の終わりにある決算の時が来ます。王となった方が最初の僕に言われる言葉は「よい僕だ、よくやった。お前はごく小さなことに忠実だったから10の町の支配権を授けよう」です。神の国と主イエスの来臨を前にして、1ムナで利益を上げる為に主の弟子に求められることは明らかです。それは「ごく小さなことに忠実であること」です。それが神の国を待ち望んでいる主の弟子の生き方だと告げているわけです。

主イエスは決して困難なことを求めてはいません。主が求めておられるのは小さなことです。大きなことをしなければ無意味だとは言われません。国をひっくり返したり、世界を変えよとは言われていないのです。課題は1ムナをどう生かすかです。
信仰への新たな決断を心に金る人がいてもいい。せっかく教会に来たのですから伝道の1ムナを戴くのもいいと思います。

2023年10月22日 礼拝メッセージより

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