ひとが生きるために

マタイによる福音書 4:1-11

今日は復活前第6主日。受難節第一主日、四旬(40日)節第一主日という言い方もあります。先週の水曜日は灰の水曜日とよばれ、レントと呼ばれるキリストの受難を偲ぶ季節に入ります。灰の水曜日から46日目が復活祭になります。その間6回の日曜日が挟まりますが、日曜日は祝いの日ですから、日曜日は除きます。つまり40日がレントの期間に数えられます。レントとは<ゆっくり進む>という意味の音楽の用語でもあります。冬から春に向かって、厳寒のときから花の季節にゆっくり季節が動く印象があったのかもしれません。ローマの教会でキリストの受難に備えこの季節には、肉を絶つとか、断食をするとか、節制を心がけたことがあるようです。永山教会のある方ですが、この期間はお酒を断ちます。レントを一般の国語辞書で引くと四旬節―大斎とかかれています。つまり節制をする季節と述べられています。

さて主イエスの荒れ野の誘惑の物語です。「さてイエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして荒れ野の中を霊に引き回され、40日間悪魔から誘惑を受けられた。」というのです。40日の飲まず食わずの断食のあとにサタンの誘惑を受けられたのです。お隣の高幡カトリック教会のコンスタンルイ神父が1995年9月に母国のフランスが太平洋で核実験を強行したことに数日間、抗議のハンストを大使館前で実行されたことを思い起こします。70歳近い老神父の抗議は大手新聞にも大きく取り上げられました。ルイ神父の断食は、母国の核実験への政治的抗議の意味がありました。

この荒れ野におけるイエスキリストの苦難・悪魔の誘惑の物語は、3つの情景があります。
第一は40日にわたる断食と飢えから来る空腹を癒すために、そこに転がっている石をパンになるように命じたらどうだ、ということです。
第二に、悪魔はイエスをエルサレム神殿の屋根に立たせて、神の子ならそこから飛び降りたらどうだ。神の子なのだから天使があなたを支えて、あなたは無事地上に到達するだろう。それを見て、いよいよ人々はあなたをあがめるだろう。
第三、そして最後にあなたが地上の栄光を受けたいと思うなら、私(悪魔)を拝んでみたらどうか、というものです。

三つに共通するのは、いずれも主イエスでなければ、可能性の片鱗もあり得ない出来事だった。そして同時に、人間の欲望と権威と権力の達成をめざして、権力支配の達成のためになら、人間はサタン、あるいはサタニックな誘いに簡単に乗るということです。オックスファムという世界の貧困救済を援助する団体が、現在の世界ではたった62名の富裕層のひとびとが、貧しい38億人の持つ富の総量に等しい富を独占しているなどと伝えられました。

そういう世界と我々の毎日とは、関わりはないでしょう。けれどわたしたちにも、わたしたちなりの欲求はあります。少しでも自分を進歩させたい、自分自身を安全に保ちたい、と努力してゆくことは誰しもがそうであるべきだと思います。

仲の良かった兄弟同士が、親の死を通して遺産相続がこじれて、ついには刃傷沙汰、つまり刀を振り回すほどの争いに発展するだのという出来事は珍しくはありません。

聖書はそうして争いあう自己中心的な欲望の世界に、その背後に、悪魔の唆し(そそのかし)があると、神話的に描き出します。確かにそれは神話的ですが、昔の話ではなく、現在の私たちの世界でますます現実的な事実となっているのではないでしょうか。

人間的に生存する大切なことを主イエスはすべて否定してしまったのかととりますが、決してそうではないでしょう。主イエスは人間として生きることを豊かに祝福する方です。しかし、そうしたところにふと入り込む、サタニックな唆しを主イエスは否定します。主イエスは人間として生きる意欲は祝福なさいます。しかし意欲が欲望になり、欲望が他人を押しのけ、隣人や隣国を攻撃し、圧倒していく方向に暴走して、ことの本質も見えなくなる。それは悪魔の唆しでしかありません。

主イエスはサタンの唆しに対し、「人はパンだけで生きるものではない」とか「あなたの神である主を試してはならない」とか「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という旧約聖書の言葉を引いて悪魔を退けました。初代教会のキリスト者たちは、パンか信仰かを選び取らねばならない状況があったのかもしれない。偶像礼拝を強要され、信仰か偶像礼拝かを選び取らねばならない状況があったのかもしれません。6節、悪魔は主イエスに向かって「あなたが神の子なら、飛び降りたらどうだ」といいました。あなたは普通の人間ではなく、特別な存在である。それならその特権をここで行使してはどうかと言います。

神を引き合いに出して自分の存在を誇らしく誇示する。極端な自己主張を正当化するとき、宗教的な権威や装置を作り出します。

けれどここで主イエスは<もしあなたが神の子なら>という<そそのかし>を、拒絶するのです。主イエスは人間が神を利用して自らを神格化するという形を、拒んだのです。もしあなたが<神の子なら>という悪魔が言うことは、言葉としては正しいかもしれない。でもそれは本心でもない。ですから悪魔の唆しの言葉であるなら、主イエスは<言葉だけ・うわべだの言葉>を拒絶するのです。つまり<あなたが神の子なら>を、退けるのです。結局、主イエスは一人の人間としてここに立ちます。空腹に耐えかねる一人の人間としてそこにおられた。悪魔の言葉に従って、高いところから飛び降りたら、主イエスの名声はいよいよ上がったかもしれない。しかし、そうしてサタニックな宗教的な権威を帯びることを主イエスは拒んだのです。人間からあらゆる神話的うわべを取り払って、主イエスはそこに立ったのです。

神を信じると、神がかりになることを期待する心が働きます。信仰生活には理性も必要なのです。信仰と理性は、バランスが取れていなければなりません。パウロもそういうのです。(1コリント14:20)

というのは、信仰深さは、神がかりになってはならないのです。すると人は一歩神に近くなったような気がするのです。一種の妄想です。時に人間が神になっていくようなことがおこります。主イエスは本当の信仰とはそういうものでないことを、身をもって示されたのです。神は神、人は人であるということを明確にしたのです。

イエスキリストの生涯は、一人の人間として弱い立場の人々と歩み続けることでした。もっとも貧しく弱い立場の人々と連帯して、苦悩を味わい続けられました。

(一方で主イエスを迫害し、十字架に追いやった人々は祭司、律法学者という、きわめて宗教的な人々でした。いわば神に近い人々、神に偽装した人々です。その人々こそ人間が神に偽装する悪魔的な宗教性に生きる人々でした。彼らが主イエスを十字架につけたのです。)

いかにそうした力から自由になれるのか。神を神として、人は人に過ぎない。そうした目を我々は、見つめるべきなのです。そこには神ならざるものを神としてはならないということも成り立ちます。人間が神になってはならないことは確かですが、それはかなり日常的で、基本的な自分の名誉、権威、安全を第一とすることが、その延長にあります。もしあなたが神の子であるなら、というサタンの呼びかけにあらためてノーを言いうる信仰に生きなければなりません。

主イエスを主として見上げ、神を神とすることが、人が人としての限界を見つめる原点です。互いに分かち合う信仰と心をひとつにして、兄弟であり、姉妹である一体性を大切にして歩み続けたいと願います。

(2021年02月21日 礼拝メッセージ)

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