世に勝つ信仰

ヨハネの手紙一 5:1-5

5:4「神から生まれた人はみな、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。」

これは確かに高らかな信仰賛歌ですが、そこまで言い切っていいのだろうかという思いがつい心に押し寄せてきます。自分の信仰が世に勝つ力などと、どういう現実をさしていえるのか。

主イエスは「カラシ種一粒ほどの信仰があれば、山を動かすことが出来る。」とマタイ17章で言われました。山を動かさなくてもいい。つまらないことで悩んでいるこの人の心が動かせればいいのに、身近な家族の心さえ動かせない。からし種は鼻息でも飛んでしまうほどのものといわれます。主イエスが言うのは信仰の持つ可能性でしょうが、私などはそんな極小な信仰さえ、自分は持ち合わせていないのだろうかと、自分の信仰の貧しさばかりに目をやってしまうのです。

<世に勝つ>とヨハネ書簡の著者は繰り返して言います。ヨハネ福音書の17:25「正しい父よ、世はあなたを知りません。」と祈られました。この世とは<神を知らない世界>のことです。あるいは<神に背を向けて、神に逆らい、神なしに生きようとする世界>といえます。私たちは神は人間の感覚・直感も超える世界の存在と理解しますから、この世とは、私たちの目に見える、手で触れられる人間の欲望や、感覚的な衝動に支配される世界と言えます。つまり具体的には、金銭や権力によって、自己の勢力や栄光や、安定を確実に手に入れようと歩む。世の姿とはそう描くことが出来ます。けれどそう願って、そこまで手にする人は極少数であり、またそうして生きることがその人の幸福の実感とは、何の関係もないのです。

このヨハネの手紙では<信仰は世に勝たしめるのだ>と言い切ります。

5 <だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じるものではありませんか。>

確かに信仰にもさまざまな形があるかもしれない。つまり熱狂的に信ずる人。信仰を語るたびに感動的に語る人。私たちはともすると自分の信仰のあり方を時に深く反省したり、場合によると、こうでなければならぬと、自分の信仰的あり方を誇ったりすることもあるかもしれません。でもこの著者が言うのはただ一点。<イエスが神の子であると信じるもの>です。

ヨハネ16:33では<あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。>
世に勝っている主イエスを信じるからこそ、その方を信じる私たちの信仰も、世に勝たしめるのです。

主イエスが世に打ち勝った勝ち方は、ほかならぬ十字架の道でした。イエスはこの世の権力に一度は屈服させられたかに見えました。十字架に釘付けにされて滅ぼされたのです。しかし神による圧倒的な力は、その主イエスを復活せしめ、そこでピリオドを打たれたのはこの世的権力でした。人がこの世を見つめるときに、世界を支配する権力的な力はあまりに圧倒的に見えます。しかしそれはこの十字架と復活の出来事の中で逆転されたのです。イエスを信じるところには人が見たこともない新しい可能性が開かれてくるのです。

確かに人がこの世を生きようとするときに、悩みや困難が次から次と起き上がってきます。

「身を横たえて眠り、私はまた、目覚めます。主が支えてくださいます。」(詩篇3篇5節)

信仰者にも、動揺せざるを得ないような、不安や悲しみ、憤りと痛みが引いては寄せる波のように、押し寄せることもあります。時に人生におこってくることについて、本人の責任とは無縁のことも多いでしょう。しかしそのときダビデに起こったことは、彼自身が全面的に責めを追わねばならないことでした。

この詩篇を書いたときのダビデは、生涯で最も暗いときでした。ダビデの実子である王子の一人アブサロムが反乱を起こしエルサレムを制圧し、クーデターは九分どおり成功したかに見えました。アブサロムの殺意は激しく、初老をむかえていたであろうダビデ王は子供のように泣きじゃくり裸足でエルサレム城を逃げ落ちてゆくのが精一杯でした。

発端はアブサロムの妹、ダビデにとっては娘に当たるタマルが異母兄弟のアムノンによってよこしまな愛をかけられ、病気を装ったアムノンによってタマルがレイプされる事件が起こるのです。よこしまな思いを遂げたアムノンは激しい怒りが起こり、アムノンは激しい憎しみをタマルに感じた、と書いています(サムエル記下13:15)。
これに対してアブサロムは激しい怒りをいだき、やがてアムノン初めすべてのアムノンの兄弟を皆殺しにする事件を起こします。子供たちが起こす事件にダビデはきびしく処断する態度を取ることが出来ないのです。そして4年後、アブサロムは軍隊をみずからの指揮下において、十分な準備と手はずを整えてクーデターを実行するのです。アムノン、タマル、アブサロム。母親が違っても、すべてダビデ自身の実の子たちです。彼らが殺し、騙し、犯す暴力。なぜこんなことがと聖書を読みながらため息が出てきます。

しかしダビデはすべてこの一連の事件は自分の責任であることを知っていました。かつてのバテシバとのよこしまな愛。これにはバテシバの夫ウリヤの殺害も含まれていました。そうした自分自身の犯罪の構図が、自分自身の子供たちの間で再現したのです。責任は彼自身にあるのでした。この辺のドラマ仕立てはシェークスピアの戯曲を思い起こすほどの迫力があります。多少の過ちはだれの人生にもありうる。でも、これほどの事件はそんなにあるものではないし、あっていいはずがありません。

あまりに聖書にふさわしくないストーリー。でもこの出来事のさなかでダビデは冒頭の言葉を残したのです。だれにも責任転嫁のしようのないダビデの不行跡(ふぎょうせき)。昨日まで王冠を戴いていた人が、洞窟から洞窟に逃げ回るありさま。普通の感覚では首をくくるほかないような窮状だったでしょう。しかし、みずからの罪の告白を経て、神の赦しを信じるダビデには、心は不思議な平安が宿っていたのです。シェークスピアと聖書の世界の大きな違いがここにあります。人が弱さから罪を犯すことはあるでしょう。人間存在はかくまで不完全なのです。たとえその罪が人の目にどれほど大きなものであっても、もし、その人自身が深く悔い、神の許しを求めるのなら、神は赦されるのです。それはあたかもその罪がなかったほどの徹底した赦しをお与えになるのです。だからダビデはこの窮状の中で、<身を横たえて眠り、目覚めるのです>

あなたはこれがあるから、人生うまくいかなくなって当然。平安に生きることはあきらめなさい。あきらめ・諦念こそ人生の土台だと、さまざまな力が私たちに語りかけてきます。しかしあのダビデをして、この苦境の最中で、神は平安を与えられます。たとえどんなに起こっていることに、本人が責任があったとしても、その人は再出発は可能なのです。そしてダビデはその責任を深く自覚したからこそ、神はこうして一人の人を再生させ、再出発を促します。過ちを犯さない人は誰一人いないでしょう。多く赦された人は、多く愛するのです(ルカ7:47参照)。赦しの原点を忘れることはないのです。再生してこそ、償いも始まります。

だれが世に勝つか。つまり勝ち続ける。…という意味です。キリストによって過去に戦い取られた勝利が人の心の根底にあれば、今日も、明日も、あさっても、いつまでも勝ち続ける力が信仰者に与えられるというのです。信ずるものはみな、世に勝つのです。

(2020年06月28日 礼拝メッセージ)

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