主の再臨に備える

1テサロニケ 1章1-10節

主に倣う者

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パウロは冒頭に何を祈ったのでしょうか。この日に私が何を語るべきなのか。
パウロのテサロニケに向かって書かれた手紙は、平和の問題など何ら関心は無いのではないか。
「この世の平和の問題より、天的な心の問題こそパウロの関心」と考える人のほうが多いのではないか。
・・・と思ったりします。

ですが冒頭のパウロの祈りは次のように祈られます。
<恵みと平和が、あなた方にあるように>
そしてパウロが多くの教会に書き送った書簡には、冒頭に必ずといってよいほど<恵みと平和>という言葉が付けられます。神の恵みと平和は<重なり合うもの>です。

パウロにとってテサロニケは3番目の伝道地でした。どこにおいてもパウロはもっと長く時間をかけて伝道をしたかったに違いありません。パウロの伝道の多くは成功に見えるのです。しかしたちまちユダヤ人による反対、圧迫、迫害が始まります。財力も乏しく、味方になる人は最初はだれもおらず、埃にまみれて活動の日々を生き、時にはテント造りという仕事をしながら日々の糧は自分で稼ぎもしました。どこに行っても、最後には惨めさの中でこん棒と投石で町を追われるのです。このような生活の中で、一日としてゆっくり眠る日もなかったことでしょう。

6節にある<ひどい苦しみの中で>とはパウロ自身のことではないでしょうか。パウロ個人として、もし伝道者でなければ、もしキリスト者にならなければ、どれほど安逸な日々があったことかと思います。第一級の律法学者ガマリエルの一番弟子でしたから学者になる道もあったでしょう。権力者になれたかもしれない。
かなり辛いことでしょうが、自分の言葉を受け入れた人々に「信じたら安逸な道がある」とは言えなかったのです。だいたい宗教は「信じたら、良い事ことに恵まれる」と言うのです。ですがパウロは、この教えを信じたら、何がしかの苦しみが伴う事をも伝えねばならなかった。
突然この町に来たパウロに影響を受け意気投合した人々も、一度キリスト者となったらユダヤ人からつけ狙われた。新しい愛に生きようとすると、そこに新しい悩みが生まれたのです。しかし苦しみの中で、人々はそれに勝る喜びを分かち合い、同じ生活をし始めたのです。困難はあった。でも人々は喜んで新しい生活を始めていったのです。  

そこに聖霊が働きました。神が働いたとしかいえない業が始まったのです。

神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

4-5a

テサロニケにおいて、そこに神の選びをパウロは感じたのです。間違えないでください。パウロ先生が、あの人この人をキリスト教に向く人間だと思って選んだのではありません。「神が選んだ」と言うしかない手答えを感じたのです。そう感じられると、パウロは自分の労苦など、なにほどでもないと思ったのです。
そうして導かれた人々はパウロの弟子ではありませんでした。<兄弟>なのです。そう呼ぶしかない。ユダヤ人にとって兄弟と呼べるのは同じユダヤ人だけでした。<神に選ばれている>のはユダヤ人だけでした。しかし、今やパウロにとってギリシャ人も<兄弟>となりました。ローマ人も、エジプト人も、エチオピア人も、キレネ(アフリカ)人も、ガリア(フランス)人も、ブリトン人も、否、キリストにあるならば世界中の人々が兄弟になったのです。人種の壁は崩れたのです。パウロの世界を見る目は根幹から変わったのです。神はすべての民をご自分の民として選んでおられるのです。感謝をもってそのことを見るほかはない。

パウロは神に選ばれている人々の生活を、信仰、愛、希望と言い表します(3節)。音楽の3要素のようなものです。リズムと、旋律と、和音。色で言えば3原色のようなもの。この三つを、あちこちのキリスト教共同体にある人々のうちに見出しました。ただパウロは単に信仰、希望、愛と言うのでなく、「信仰」なら、<信仰の働き>といいます。信仰とは働くもの、働かせるものです。「希望」なら<希望の忍耐>といいます。それもイエス・キリストに対する希望です。
愛には忍耐が伴います。つまり愛は、永続してこそ愛です。ですから忍耐なくして愛に生きることはできないのです。むろんそうした愛は希望を生み出すのです。時に忍耐が切れそうになっても、そのところで生きうるかどうかは、愛がまことかどうかが問われるのです。
わたしたちは既に抜け殻のようになった愛をいくらでも見るかもしれない。だからこそ愛と信仰と希望と忍耐は、キリストに結ばれてこそのものなのです。

独力で信仰と希望と愛と忍耐に立ち続けることは不可能です。だからこそイエス・キリストが、わたしたちのために神の御前に立ち続けてくださる。キリストはわたしたちを裁かない。誰よりも忍耐し、誰よりも神に近く、だれよりも希望を手放さない。そして誰よりも深い愛にあふれているのです。だからわたしたちは安心して神の前に出ることができ、「わたしたちの父」と呼んで信頼できる。それほど神が私たちを親しく、近い存在とされる。
そしてキリストは厚い雲を破って私たちの所にさえおいでになる。この方がともにいてくださるなら明日に希望をかけてもいいと思われます。多少の忍耐なら忍んでもいい。そこから信仰と愛を注ぎ尽くすことが可能になるのです。

2023年8月13日 礼拝メッセージより

 

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