天につなげられ

ヨハネの黙示録 7章 1~12節

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ヨハネ黙示録は紀元70年以降をこえた時代に書かれた書物と言われます。教会が生まれて間もないゆりかごの時代は、ローマ帝国の歴史の中でもひとつの危機の時代にありました。ローマ帝国の足下と言えるアルプス山脈の北の辺境ではローマの勢力が揺らぎ始めていました。ガリヤといわれた現在のフランスでは、68年に反乱が起こっていました。またほぼ時を同じくしてゲルマニア(今のドイツ)では69年に反乱が起こり、ユダヤにおいてさえ66年からユダヤ人による暴動がおこり、それが戦争にまで発展し、鎮圧には4年を費やした。巨大なローマ帝国を相手に、ユダヤはプライドと存亡をかけて戦争を挑んだのでした。しかもこの頃、ネロ、ティトス、ドミティアヌスという評判の悪い皇帝が次々と立っては殺されていった。また79年にはベスビオス火山が噴火して、ポンペイや周辺の都市が火砕流で埋まってしまった。

そうした時代にはローマ人も、ユダヤ人も、キリスト者たちさえ、とても不安にならざるを得ません。生まれたばかりのキリスト教会はそうした不安の感情の捌け口に利用された。つまり迫害を受けた。皇帝ネロはローマ市に自ら放火して、それをキリスト者の仕業と告発して多くのキリスト者が処刑されたのです。この時代は第一世代の使徒たちが高齢と死を迎える転換期でもありました。ローマの社会に生活しつつ、社会が皇帝礼拝を求める圧力の中で、キリストのみを神とし、ローマの敵となったユダヤ人キリスト者に加えられる迫害。そうした社会でどう適応すべきなのか。ヨハネ黙示録はそうしたローマへの批判をこめた抵抗の書物です。ですからローマのことをローマとは言わず、<バビロン>といいます。(17:1-15)
9節の7つの丘-これはローマが建てられた7つの丘―は、カピトリーナの丘をさしています。

キリスト者は確かにローマの社会や日本の社会に暮らしていますが、同時に(と言うより、さらにその前に)神の国の民であることを覚えるべきだというのです。数年前に聖書学院にも来られて、講義を行ったスタンレー・ハワーワスというメノナイト派の神学者がいます。この人は「旅する神の民」という本の中で、フィリピ書3章20節の箇所を別の引用を引いて(モファット訳)「わたしたちは天国のコロニーである。」と訳してこういいます。「コロニーとは上陸地点や前線基地のことであり、他の文化の只中におかれたひとつの文化である。そこではふるさとの価値観が繰り返し若者たちに語り継がれ、その旅する神の民特有の言語と文化が強化されてゆく。」(10頁)

つまり、教会とは神の国のコロニーなのです。<教会はこの世に浮かんでいるひとつの異質な文化を持った孤島」だといいます。(ヘブライ 11:13-16)

この神の国に生きる人々は額に刻印をされているとヨハネは言います。ガラテヤ6:17で<パウロ>は「わたしはイエスの焼印を身に受けている。」と語りました。初代教会の用語ではこのイエスの焼印とは<洗礼>をさしたと考えられています。洗礼を受けた人々は神に所属するものと考えられるのです。神はその人々を守り、寄留者としての戦いに勝利されるのです。

神に刻印された(洗礼を受けた)人々とは、例外的な、特殊な変わり者でしょうか。
黙示録7章9、10節では、あらゆる民族と国民から構成された大群衆となった(真の)神の民。この世の枠組みを越えた(真の)人々の集まり、共同体。民族を超え、言語を越え、国家が異なる人々。でも、神によって新しい国籍を与えられた人々です。ただひとつの共通点は「十字架につけられた清き神の子羊こそわれらの救い主。」と告白しているのです。これが教会で、この世の寄留者である神の民です。この世では寄留者である。それは困難と弱さがないわけではない。しかしいたずらに不正に甘んじ、社会の不正義に沈黙し続けなくて良いのかもしれない。神の子羊であるイエス・キリストに誠実であることを第一に生きようとするからこそ、社会を正しい方向に向かわしめる力になるかもしれません。

社会や国家というものは基本的な価値基準は(基本的には)正義や公正や平和を目指すものです。しかし権力は、いつもそうした価値観に立ち続けるとは限らない。世の中の人々の第一の価値観が金銭や利潤を上げることですから、そうした狭間で国家が犯罪的な出来事に関わることはありうるのです。だからこそ動くことのない神の民が必要なのです。額に刻印された人々がおらねばならないのです。

神によって生きることは、私たちの予測を超えた神の可能性が実現する生き方です。希望を失うしかない有様に生きていた人が、俄然その希望が光り輝いてくるような状況が生まれることです。また国境や国籍や肌の色や、民族性でばらばらになっていた人々が、ひとつの家族として結ばれることです。

ローマ帝国中に、かってない迫害の嵐はこれから吹くのです。しかしこの情景(迫害)はすでに過去のものになった姿です。ペトロ、パウロはすでに殉教死し、一般の信徒も次々と妥協し、あるいは信仰を捨てていきます。迫害はますます厳しい状況を教会にもたらし、礼拝も転々と場所を変え、秘密を守らなければならなくなっていたでしょう。地下の墓場(カタコンベ)の礼拝もあちこちで行われるようになっていった。けれど皇帝礼拝が、キリスト教礼拝に変わることはなかった。皇帝礼拝に真理性があると信じる人はおそらく誰もいなかった。皇帝がキリスト教で言う神であるはずがなかった。厳しく問われれば問われるほど、福音の真理に人々は目覚めて言った。

ヨハネはこれから全ローマ帝国で行われる迫害をすでに過去のものと見ていた。迫害がこれから何十年か、ことによると100年を超えてあるかもしれない。でもこんな愚かな強要に身を委ねるわけには行かなかった。人は生きている時代の中で、今の出来事があたかも絶対であるかのように思うのです。「ヒトラーの第三帝国は、千年続く」とナチスの高官達は考えていたようです。当時のドイツの大半の人々もそう思えていたかもしれない。東ヨーロッパの体制が揺らぐなど、私たちには全く思えなかった。自由化が実現しようとしたとき、そこに非常な不安と期待が交錯したものです。ましてやローマ帝国が傾くなど、ヨハネが言ったことは、法螺も法螺、大法螺と聴こえたはずです。教会が生き残る可能性はゼロだっただろう。しかしヨハネは教会の圧倒的勝利を予告したのです。

だからこそ、これは神の啓示でした。何の確証も見えない。可能性はゼロどころかマイナスでしかない。絶対不可能だ。しかし信徒は信仰を守り、堂々と殉教していきました。軍隊の中でも、兵達は信仰を明らかにしていきました。1箇所教会が摘発されると、信者が散り、別の何箇所かで集会が始まりました。迫害されれば、迫害されるほど、教会は増加し、信徒を増やしました。

見えなかったアルプスが、沈む太陽の中に見えたというお話をしました。じっと目を凝らして、信仰に立って物事を見ることは大切だと思います。信仰によってものを見ると、否定的に、ネガティブに見ることにはなりません。時が必要になるかもしれない。しかし処理と希望が見えるようになります。しかも、その戦いの中で確かにここに神様がおられるから起こるのだという兆しを神様は必ず見せてくださるのです。

朝日新聞ですが、中国のキリスト者は今や1億を越すのだそうです。中国は今やキリスト教国だと書いています。中国において、その支配体制はキリスト教を心から歓迎するとはいえないでしょう。でも今、中国は福音を必要としています。だから人々は福音に心を傾けます。
またインドでカースト体勢を改善しようとしないヒンズー教を嫌って、仏教を選ぶ人とともに、キリスト教徒が6,000万を越すと述べられています。

ヨハネは夢を見た。信仰の夢です。私たちもいっそう心して神を見上げるとともに、信仰の夢を見てもいいのではないか。ヨハネの夢は実現し、やがてローマ帝国がキリスト教を国教に定めます。むしろそこからが問題だった。キリスト教は権力を持つことはありません。必要以上の財力を持つこともない。でももっと大きな夢を抱いて、福音を生きることは我々が見失っていることではないでしょうか。

2022年10月16日 礼拝メッセージより

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