いまや救いの時
第2コリント 6章 1~10節
今朝は、特に高齢者の人々は外出しないようにというが新聞に出てましたけども、こうして皆さんとお顔を合わすことができて大変嬉しく思います。どれほど励まされるかわかりません。リモートでご覧になっている方々も、リモートだからこそ繋がっていくことができる部分があること、とても大きなことだと思っております。
今日の説教題は「いまや救いの時」。「今が」じゃなくて「今や」。“や”は強調の言葉ですね。「今こそ救いの時」。逆説的に聞こえるかもしれませんけれども、いやその通りなんです。2節に、使徒パウロは「今や恵みの時、今こそ救いの日」と力説するのです。神の恵みが私たちに微笑んでいる。そんな言い換えが効くんじゃないかなと思います。
神の救いが今や私に実現したと言います。でも、彼をめぐる現実は、あんまり喜ばしくないことも沢山あったと思うのです。4節に「大いなる忍耐をもって苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」ということが並べられています。恵みの時なのになぜ?と思いませんか。「神の恵み」「神の救い」が最初に出てきましたけれども、「神の」が付くのは、たった二つです。苦しみとして言い換えられている忍耐、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓。これ10あります。神の救いがあるとパウロは言いますけれども、そう言いつつ、こんなに重い現実があったのかと、逆に気づかされます。でもパウロは「今や」なんです。今こそ神の救いが実現した時なのだと言うのです。重い現実など影響できないほどに神の恵みは大きなものです。
パウロのこういう言い方を支えているものは1節です。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」
「神の協力者」という言葉が出てきます。口語訳では「同労者」と訳されていた言葉です。この神の協力者、同労者によって支えられている現実がある。それほど神に仕える友たちの存在は大きいのであります。
私たちは神のティームワーカーなのだ。偉いとか偉くないとか、上とか下とか、そういう関係では全然ないのです。一つのチームなのです。混然と一体感で結ばれた人々。それが協力者、同労者、Team なのです。
今の日本。例えば新聞を見る、例えばテレビのニュースを見る。すぐ出てくるのは、
「日本は失速している」「日本経済は落ち目だ」「日本に将来はない」
あちこちで毎日のように流されてきます。ことによったらそうかもしれない。日本にどこまで希望があるんだろうかと、チラッと感じたりすることは、ないわけではないのです。でも神の目にはそうは見えていない。「今はこの神の救いに与る時なのだ」「大きな大きな神の祝福に与る時なのだ」というのが聖書が語るところです。
2節に「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』」と書かれているのはイザヤ書49章の言葉です。旧約の神の民はバビロンに奴隷として引かれて行った。「恵み」とか「救い」は、遥か掛け離れた言葉であった。しかし、バビロンから開放されるというメッセージが語られていきます。ユダヤの人々は、それは夢のまた夢と思っていた。
「そんなことあるわけない」
「こんな奴隷の日々が毎日続いてんのに、そこから解放されるはずがないではないか」
ところが預言者は
「いや事実は違う。イスラエルの民族の解放が今すぐ、これから現実のものとなっていくのだ」
ということを語っていったのです。しかし受け止め方は、開放そのものが問題ではなかった。
「神様という存在は、そういう開放をどこにあっても実現する」
「ユダヤの人々にとっては想像を超えていることだけれども、神様こそ、そういう現実を変えていく存在なのだ」
「やがて救い主が自らおいでになって、人々を恵み、すべての罪から救われる時が来る。」
イザヤが言いたかったのは実はそっちのほうです。
決定的な「時」は、イエス・キリストが来臨して、この時代に今、実現するのだとパウロは言った。「捕囚の民が苦しみ悶える中に、神様は私たちの人生の苦悩や罪の問題から解放してくださる時が来る」「今こそ、その恵みの時が来ているんだ。政治的な問題や軍事的な問題は、解決される」。でもその時の、その出来事の問題ではなくて、「そういう救いをもたらす神がおいでになるのだ」ということのほうがメッセージなのです。
主イエスと共に神の救いが始まる。主イエスが神でなければありえない数々の奇跡の業、愛の業、教えが行われました。ところが人々は、「それは神の業でない」「悪魔の業」と片付けて一向に耳を傾けなかった。
私はキリスト者になる前の年のクリスマスに、クリスマスの讃美歌を聞きながら、感動と音楽を超えた不思議な神の迫りを感じました。そのとき私はキリスト者になっていたのかもしれない。そして翌年、アメリカ人宣教師のいる小さな小さな伝道所に集いました。この方の献身ぶりも素晴らしかった。私はそれ以来ほとんど礼拝を休むことはありませんでした。
やがて私が牧師になって、時が来ると、「えっ、こんなことあるの?」と思うような出来事が起こりました。あれほど反対した両親がキリト教信仰を受け入れた。しかも父の葬儀を通して、遠く山口県にいた叔父がキリスト者になった。その時、いとこの大半がキリスト者であることが分かりました。
信仰者になれば何もかも自分にとって都合の良い事が起こるのか。パウロによれば、忍耐があったし、苦難があった。欠乏も、行き詰まりも、鞭打ちも、監禁も、暴動も、労苦も、不眠も、飢餓もあった。これは耐え難い試練の連続です。しかし人生は試練の連続でしょうか。試練のない人生などありえないかもしれない。でもパウロは「神の救いが、神の恵みが、これらの苦悩に打ち勝っていること」をあらわした。
私は両親の時代と違って、平和の時代に時を過ごしてきた。つくづくと、神が与えてくださった幸せをかみしめています。でもやはりキリスト教信仰を生きているからこそ、この幸せがあるのだと思っています。
私たちの日々の歩み、現代の世界は、さまざまな見方が可能だと思います。まさに恵みの時です。パウロはキリスト者のことを「神の協力者」と呼んでいます。口語訳では、あくまでも「同労者」となっておりました。協力者・同労者とは、同じ目的をもって同じ仕事をする共同作業者です。共同で仕事をするときに大切なのは、何もかも指示されながら事を行うのではなく、相手の心を知り尽くして、相手の心を読んで事を行うことだと思います。
旧約聖書で神と共に歩んだ協力者と言えばアブラハムとモーセを挙げることができます。アブラハムは、あるとき神から独り子であるイサクを捧げることを命じられましたね。せっかくできたイサクを全焼の捧げ物として捧げる決断をして3日の道のりを行った。祭壇を作った。いよいよイサクを捧げるという時に、神様は「もういい」と止めました。神様は、改めてアブラハムに祝福の約束を更新しました。やがてイエスを十字架に贈る神の痛みの幾分かをアブラハムは感じ得たのかもしれない。「アブラハムの心と神の心がそこで一つとされた」と言えると思います。
「キリスト者こそ神の協力者だ」とパウロはロマ書の16章3節で言います。プリスカやアキラという人が出てきます。協力者と呼んでいます。9節、ウルバノという人が出てきます。この人も協力者だと。21節にはテモテがやはり協力者だと。協力者と、そうでない人々との間には、明らかに描きかたの違いがあります。協力者と言われた人々は共に祈り、時には共に牢に入り、伝導したのです。ここには牧師と信徒という関係はありません。先生と弟子という繋がりでもない。主にあって共に働き、共に労苦をし、共に心つながれた人々です。ユダヤ人、ギリシャ人、学者、奴隷、男性、女性、国も階級も違う。しかし、すべての人が主にあって協力者であり同労者であります。
時には善意で行ったことが誤解されることもあったかもしれない。しかしその姿の原型は、十字架にかけられた主イエスにありました。罵られながら一言も答えなかった。一切を神の御手に委ねた。6章の16節には神の神殿、“至聖所”という言葉が使われています。そこは大祭司が年に1度だけ入ることが許されている聖なる場所です。そこは常に聖なるものとして保たれなければならない場所です。キリスト者をパウロはそう受け止めた。
キリスト者は失敗をしない存在ではないと思います。つまずきがある。ましてコリントの教会は、私たちが想像もできないほどの大敗を一度は経験した人々。だからこそ分裂や混乱のあるところにキリストの癒しと救いと清さをパウロは求めました。そしてそれが実現していった。
それは人が努力して獲得するものではなくて、神が与えてくださるものだ。私たちの内心のことも、日常のことも、労苦のあるところに神は豊かな実りを与えてくださる。どんな困難の中にも神様はそうして解決に導いてくださる。こういう人に出合わされて私たちはキリスト者として生きていきます。
パウロは静かな人生を生きようと思えば、いくらでもそうすることができた人でしょう。当時、ローマの市民権すら持っていた人です。ですがパウロは僕に徹した。鞭で打たれ、投獄され、極度の困難に会うこともあった。しかしそうした中で、一切を神の御手に委ねていった。そこに神の僕としての真の姿がありました。今、困難があったとしても苦しみがあったとしても、神の圧倒的な勝利がそこに獲得されることは真実なことであります。ですから私たちは神の前に、僕として歩んで行きたいと思います。
「今こそ神の恵み、神の救いが実現する」
そのことを誠実に見つめていきたいと思います。
お祈り
神様、あなたの前に私たちが一歩一歩、歩んで行けますことを、心から感謝いたします。私たちの周囲には多くの困難があるかもしれない。目に見えるところは解決の手段がないような、そのような行き詰まりを覚える場合もあるかもしれません。しかし「今や、いや、今こそ神の時なのだ」とパウロは私たちに語りかけます。どうぞあなたの前に、私たちには多くの神の同労者たちが与えられていることを心から感謝したいと思います。あなたの信仰を歩んでいく中で、あなたの出来事が私たちの目の前に繰り広げられることを感謝いたします。こうした困難な時代、パンデミックの時代に私たちは生きていますけれど、どうぞあなたの前に一歩一歩、確かな道を歩んでいくことができますように助けを与えてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
2022年7月31日 礼拝メッセージより