ニネベを惜しむ神

ヨナ書 4:1-11

アッシリヤの都、ニネベはイスラエル人の目には憎んでも憎んでも憎みきれない都でした。イスラエル人であれば彼らの暴虐は一日として忘れられなかった。そのあまりの悪のために神は、ついに決心をした。40日、あと40日のうちにアッシリヤ、特にその中心である主都ニネベの人々が心をあらためなければ、神がニネベの町を滅ぼす。そして主の僕、預言者ヨナは神によってこれをニネベに伝える使命が与えられた、というのです。「あと40日すれば、ニネベの町は滅びる。」3:4

ヨナは、神がそう言われるから、そんなメッセージを運んで行っても、アッシリヤの悪人たちが聞き入れるとは少しも思えなかった。ヨナは預言者です。預言者とは神が語られるメッセージを、たとえどれほど実現性が薄くともエリヤでも、エリシャでも、自信を持ってそう語りイスラエルの歴史に神の足跡を残したのです。でもヨナは少し風変りの預言者でした。絶対の確信をもって神のメッセージを語ったのではなかった。心の中ではそんなこと…ニネベが悔い改めるなど…あるわけないよ…という思いがあった。

ヨナの説教を聞いてアッシリアの首都ニネベに何が起こったのか。3:4-9…その結果 3:10「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことをご覧になり、思いなおされ、宣告した災いを下すのを止められた。」というのです。神様はとんでもないことを起こすものです。ニネベは災いから逃れることができた。それはニネベの人にとって、大きな喜びですし、神さまだって罰を下さずに済んだのですから喜ばれたに違いない。でも一人これを喜ばない人物がいました。それはヨナです。

ヨナは、<ニネベの人々が自らの説教を通して悔い改めたので>・・・滅びからまぬかれたのですから、これを喜んでもよかった。しかしこの神のなさったことにムカッ腹をたてます。4:2「わたしにはこうなることがわかっていました。主よどうか今、わたしの命をとってください。 生きているよりも死ぬほうがましです。」

ヨナは最初からこの計らいに賛同できなかった。だから船に乗るとき、アッシリアとは正反対のタルシシ行き―スペイン行きの船に乗った。タルシシといえば地中海の西の果てです。いまそこはジブラルタル海峡があるところで、今から500年くらい前までその向こうは地獄のような切り立った崖になっていて、そこから向こうは地獄が口を開けて待っているくらいに何があるかわからないところでした。ところが途中で大嵐が来て、ヨナは海に投げ込まれ、大きな魚に飲まれ、ニネベ近くで大魚の口から吐き出され、ニネベに連れてこられてしまった。

ヨナは荒れ狂う海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれ、三日三晩を過ごし、この神の手からはとうてい逃げられ物でないことを学んだと思います。タルシシに逃げてさえ、神からは逃げることはできない。だから従うしかないと思った。

そしてニネベで神の言葉を伝えた。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」
神が言うことだからこれは正しい。大火事か。大地震か。それとも大洪水か。それをこの目でしっかと見てやろう。

ところがニネベの人々はこのヨナの言葉に心動かされて悪から離れたのです。アッシリアの人々も彼らが外国の弱小国に行ってきた残虐な行為はいいことだとは思っていなかった。もう二度と王の命令だからといって外国人を痛めつけることは止めよう。この預言者の言葉をきっかけに自分を変えよう。「ニネベの人々は神を信じ身分の高いものも、低いものも身に荒布をまとい、王は王位を脱ぎ捨て荒布をまとって灰の上に座し不法を捨てた」のです。(3:4-8)

嗚呼なんということだ、神さまはニネベ滅亡の計画を投げ出してしまった。タルシシ行きの船に乗ったのは初めからヨナの心にはそうなったら困るという思いがあったからかもしれない。そうであるなら最初に感じていた不安が的中したことになります。

これを知って、普通の預言者なら喜ぶはずです。ところがヨナは愕然とした。

ヨナの心には神は恵みと憐れみに富む存在。災いすら思いなおす方という考えはあったでしょう。でもそれは神の民―イスラエルの身に適用される。異邦人にはそれは適用外なのだ。ましてやアッシリヤのようなさんざん暴力をふるう残忍な民には、神のあわれも届かない。だからヨナは安心して宣教に出かけた。
「あと40日すればニネベの都は滅びる。」
アッシリヤは許さない。それがヨナの信仰でした。ヨナにとって、イスラエル以外の異国の人々。異教を信じる人々が亡びることは当然であって、かれらがヨナが信じる同じ神によって救われるなどと言うことはあってはならないことでした。ヨナは神の愛や憐みや許しはイスラエルのみに限られるというものだったのです。

その神の許しを見てヨナは怒りました。ヨナにとっては、神が異邦人―ユダヤ人以外の人々に対する愛は受け入れられないのです。神の愛はイスラエルだけに限るのでなければならないそれがヨナの信仰でした。ヨナは混乱し、怒り、4:3「主よどうか今、私の命を取ってください。生きているより、死んだ方がましです。」とまで言います。神がイスラエルと異邦人を平等に扱うなら、自分はそんな神から離れたい。死んでしまいたい。ヨナは預言者でしょう。

4:4 主は言われる。「お前は怒るが、それは正しいことか。」

確かに正しい怒りというものがないわけではありません。しかしヨナの怒りは正しくはなかった。神の愛はイスラエルだけに向けられるべきであって、それ以外の異邦人に向けられてはならない。そうしたユダヤ中心主義は間違いなのだ。神は人種の違いや肌の色や、階級を超えて誰にも束縛されずに。

誰であっても、神は救いの手を差し伸べる。一人でも多くの人々が救われることを神は願う方。ヨナは自分で造り上げた狭い神についての思い込みを神としていた。神はこういう方であって欲しいという神を神としていた。思えばヨナは思い込みが強いのです。

①タルシシ行きの船に乗ったらもう神は追いかけてこない。
②海に投げ込まれたら絶対助からない。
③ニネベで滅びの宣教をしたらそれは必ず起こる。ニネベは悔い改めない。ニネベは滅びる
④神は心を翻さない。
⑤トウゴマは枯れない

神はアッシリヤさえ愛する。神の愛は限定などされない。計り知れない。

神がイスラエルを選んだのは世界の人が神の民となるためでした。それをいつの間には人は自分だけは神の民だが、ほかの人はダメと考え始める。あるいは、彼だけは神の民の一員となることなどできないと、やはり限定する人もいる。神の愛と可能性は計り知れない。

(2020年07月05日 礼拝メッセージ)

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