共に生きる

ローマの信徒への手紙 14章1-9節

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教会生活の中で重大な事柄の一つに、他者を受け入れ、信仰の交わりの中で共に生きるということがあります。教会に行くと、この世の人間関係と違うものがあります。張り合ったり足を引っ張り合ったりではなくて、誰もが受け入れあっている麗しい交わりがあります。そうした美しい交わりの経験によって教会の素晴らしさを知った人は多いのではないかと思います。
しかし又、教会に深く入っていって、そこに世間一般と何の変りもない醜い人間関係が続いているということに出会ったらどうでしょうか。他人を蔑んだり、排除したりという事が教会にもあるというなら、いったいこれでも教会なのかという思いにとらえられると思うのです。そして事実、教会の兄弟姉妹がお互いに受け入れあっているかという問題は、どの教会でも他人事だとは思えないのです。

今日の御言葉の中で使徒パウロは「信仰の弱い人1を受け入れなさい」(1節)としるしました。また「自分の兄弟を裁いてはならない」とも語っています。これはパウロ自身、まだ親しい交わりを得ていなかったローマの教会に宛てた手紙の一節です。ローマの教会の中にも信仰の交わりをめぐる困難な問題があることをパウロは耳にしていたのです。ここには初代の教会の問題が記されています。しかしそれはまた私たち自身の教会でもありうるのです。
教会員(兄弟・姉妹)同士の交わりが煩わしく感じるときがあるかもしれない。教会は礼拝だけでよいではないか、煩わしい人間同士の交わりはいらないと考えたくなる場合もあるかもしれません。しかしそれは聖書の求める教会の姿ではないのです。聖書は兄弟・姉妹との生活を欠いて信仰の道、神と共に生きる道が可能だとは考えてはいないのです。

1ヨハネの手紙4章20節には「目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することができません」と記されています。
神は、姿を隠すアダムに「どこにいるのか。」(創世記第3章9節)と問い、「おまえの弟アベルは、どこにいるのか。」(創世記4章9節)と問うのです。聖書は、人間は神を見失う、自分を見失う、そして同時に兄弟を失うという見方をするのです。

ワインを楽しむ人たちが菜食主義者の食習慣が受け入れがたく許せなくなってゆきます。小さな違いが相手に対する違和感となってのし掛かってきます、そうなるとお互いの根源的一致に目をやるしか方法はありません。キリストが自らを捧げ物にして私たちの共通の主となってくださったことを思うときに、お互いが共に同じ主を仰いでいる存在なのだということを忘れてはならないと思います。教会で問題が起こるとき、改めてそこまで立ち戻って受け止めるということが必要なのだと、今でも言えることだと思います。教会では誇りを持ってお互いを受け止めたいと思います。そうし続けたいと願うのみです。

2023年8月27日 礼拝メッセージより

  1. 何らかの宗教的理由で野菜しか食べない人を指すようです。 ↩︎

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