主に見出されて
ルカ福音書15章1-7節
「見失った羊」のたとえ
日本と世界は今、本日の天候のような鬱陶しいくらい暗い時代の中にあるように感じられてなりません。財政や金融を中心とした経済の不安は、世界的に若者達の就職にも大きな影を落とし、ひいては心理的な不安を多くの人々に与えざるを得ないのです。
教会なら「今こそ自己本位な生きかたを捨て、自己中心的なあり方をやめて、神に帰りなさい」と言うべきかもしれない。「試練のときこそ、神に帰る機会なのだから」と言えるかもしれない。主イエスは「人は、神にこころを寄せて、神に関心を向けよ!」と言ったでしょうか。イエス・キリストの言葉はそうではないのです。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(4節)
「『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(6節)
ここでは「今後、二度と道を踏み外して道を失ってはならない。しっかり神に関心を寄せ、神に心を向けなさい。」と直接法で𠮟責しないのです。それはメイン・トーンではありません。<あなたは神に心を向けなさい>ではなく、<神こそ、あなたに関心があります>。
当然のことですが、ここで迷っているのは羊ではなく一人の生身の人間です。迷った一匹の羊は、自分で羊飼いのところに戻ろうとはしなかった。迷いの中で神から離れた人は、自分で祈ろうなどという気にはなれません。しかし「神は深くその人に関心を寄せているのだ」と主イエスは言われます。
教会とは、神に関心を持っている人々が集まっているところでしょうか。確かに多くの教会は、まじめで、倫理的で、そうした道徳的な高さを誇らしげに胸をはっている教会もあるかもしれません。しかし本当の教会は逆です。神から興味と関心を寄せていただいた人々が集まっています。神を見つけた人々ではなく、迷って、苦しんで、傷ついて、神に見つけられた人々がここに集まっているのです。人間に必要なのは、「神から関心を注がれている」「神のまなざしが注がれている」という発見です。
聖書を見ますと、この話がどんなところで語られたかが記されています。
「徴税人や罪人がみな、話を聞こうとイエスに近寄ってきた。」(1節)
徴税人や罪人というのは、当時の社会で嫌われ、差別され、排除されていた人々です。その人々は決められた律法を守っていませんでした。金銭問題や道徳的な生活でも、不正にまみれた生活をしていると批判されました。
徴税人はローマ人のために税金の徴収をしました。でも請負でしたし、その取立ては不正でした。決められた税額に自分の取り分を上乗せしましたから、人によって税額は変わったのです。ですから今で言えば不正な着服、賄賂と同じでした。ローマ人のために同胞を犠牲にしたのです。
「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」(2節)
主イエスは食事まで用意されていました。ファリサイ派や律法学者が文句を言うのは当然だったかもしれない。日ごろ祭司階級や律法学者を批判し続けるイエスが、こんないい加減で汚れた人間達を歓迎するのはどういうことだ。しかも食事までする。食事こそ、ユダヤにおいて聖なる行為だったのです。教会では聖餐式につながる儀式です。ですから、そういうヤカラとイエスが、ファリサイ、律法学者も含め食事をすることに、聖なる人々が激怒したのです。
しかしよりにもよって、何故<徴税人や罪人が皆>話を聞こうとイエスの元に来たのでしょう。理由は明らかです。この神の言葉を聞くにふさわしくない人々を<イエスが招いた>からです。イエスに迎えられ、歓迎されたからこそ、彼らは喜んでここに来ることが出来た。
このストーリーから言えば、羊飼いである主イエスが彼らを探し、見つけ出したのです。〔皆〕という言葉にひっかかりましたが、ことによると、そう名指しされていた人たちがいたのかもしれない。だからその人たちを呼び集めた。しかも食事付きで招いた。それは彼らにとっては喜びの食卓でした。イエスにとっても嬉しい食事です。でもファリサイ、律法学者にはこの上なく腹の立つ食事でした。
改めて言いますが、主イエスが罪人を招く、探す、そして見つけるのです。そこで分かることは<神が羊飼いであること>です。主イエスの振る舞いは、前代未聞の行為です。ですが、これこそ、神が許しの神であり、神の関心は罪に苦しんでいる人々に向けられているという事実です。旧約聖書の冒頭から語られている神の姿なのです。
ここに集ってきた罪人・徴税人はかなりいたかもしれない。でもこのストーリーでは「99匹を野において、失われた一匹を探し回る」と言われています。ここにいた罪人・徴税人の一人だけが求められると言うことでしょうか。いいえ、ここにいたすべての罪人・徴税人が失われた一匹の羊です。神様は罪人を十羽ひとからに扱うことはしないのです。神は一人ひとりの、その人の人生の歩みの中で出会ってくださるのです。
主イエスはなぜファリサイや律法学者をも、ここに招いたのでしょう。この食事に不平不満、文句をつけるのは初めからわかっていたのです。それでも招いた。たぶんこのストーリーは彼らにむけて語られたものだったからです。だから主イエスは<一緒に喜んでください>と呼びかけられています。(なくした銀貨、放蕩息子)
ファリサイ派の不平は、彼ら自身が宗教や道徳のエリートであったかも知れないが、自分の人生に喜びはなかった。常に他人と比較し、他者と競争して、他者を軽蔑するか、自分を敗者・負け組みと決めつけていた。口に出てくること、心の浮かぶことは不平不満や嫉妬であるかもしれない。それは日本社会にあふれかえっていることです。
しかし、わたしもあなたもイエス・キリストによって無条件に許されているのです。見出されたのは他ならぬわたしでした。神が羊飼いであってくださる。すると今わたしの隣にいるその人も、他ならぬ見出されたそのひとりです。その人は競争相手ではないし、見下す対象の人ではないし、ともに羊飼いである主イエスを見上げる仲間となるのです。そこに非難も、ねたみも入り込むことのない共同体が作り上げられます。
2023年3月26日 礼拝メッセージより