神のみまもり豊か

創世記 9章 8-17節

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旧約聖書は生身の人間を描きます。人間存在は神に造られた、かけがえのない存在。神はご自分の手で作られたアダムとエヴァに、自由を与えられます。ロボットのようにプログラムされた通り一方的に命令に従う存在ではなく、自らの自由意志で、神に向かい合う存在。喜びと愛で関わりあう関係を、神は願われたのです。けれどアダムとエヴァはこの自由意志を神に従うためにではなく、神に従わない自由として、罪を犯す方向に使ったのです。そしてアダムとエヴァから生まれた人類最初の兄弟カインとアベルは、神への捧げ物をめぐって争いを起こし、人類最初の兄カインは、人類最初の弟アベルを殺害するのです。

やがてメソポタミヤにいたアブラハムが登場します。アブラハムは神の信仰への促しの声を聞いて、チグリス・ユーフラテス川の流域―今のイラクと言われるところ―から、すべてを捨てて神に従った。ところが到着した約束の地は<飢饉と飢餓の地>であったことを知るのです。信仰一筋に生きようとしたアブラハムの歩みは、現実とのはざまで軋みを生ずるのです。

<信仰に生きようと人が志すと>それは内側から巻き起こる不信仰との葛藤、戦いであるのです。アブラハムは100歳になり、妻のサラ90歳のときに、従順なイサクが生まれます。しかしこの平穏なイサクの家庭にヤコブ、エソウの兄弟が生まれ、親の思いとはかけ離れた骨肉の争いが起こる。さらにはイサクの信仰を受け継いだのは、どう見ても善良とは言いがたい悪賢い弟のヤコブでした。このヤコブにはやがて、神によってイスラエルという名前が与えられます。しかしこのヤコブの家庭がまた崩壊家庭を通り越したような家で、ヤコブの二人の妻と二人の女奴隷から生まれた13人の子供が、イスラエル民族の族長になるのですが、兄弟を奴隷に売ったり、不道徳のかぎりをつくすという家族模様が描かれます。
こうした人間の現実を見て、神はある日決断するのです。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。

創世記 6章5-7節

ここに「神が地上に人間を創ったことを後悔した」と二度語られています。神は人をご自分のカタチに造られたのです。この神のカタチとは、一つには自由意志であると考えられます。人間のもっとも根本的な、原則的な生き方を神は人間に与えたのです。しかし創世記のみならず、人の営みはこの自由意志を、罪を犯す手段として、あるいは神を押しのけ、自らが神であるかのように他者を支配し、抑圧する手段としてしまったのです。

ことによると神様は人間に自由を与えれば、早晩そうなることは分かっていたかもしれない。それでもなお、神は人間を意志を持たない機械仕掛けの操り人形として支配することは望まなかったのです。神様は人と喜びを分かつことを望んだのです。神様は人間が応答することを望んだのです。応答するか否かを人間にわざわざ託したのです。人は応答することも、神に逆らうことも大いに可能なのです。

人は常に神に向かって心開いて、揺るがない信頼にたち続けるとは限りません。むしろ人間の現実は創世記に描かれたとおりの、罪深い存在です。我々はアダムの子孫であり、カインの末裔であり、ヤコブの末である。創世記を書いた著者は、自らの存在をそう描いたのです。

なぜ神はそうしたのか。ルカ15章にある、有名な放蕩息子の物語でも、同じことが言えます。弟息子が、父親がまだ元気に存命しているにもかかわらず、不当にも遺産の分与を求めたとき、父は断固拒絶できた。拒絶する十分な理由はいくらでも見つけられた。我々にも当てはまることがあるかもしれません。あの日、あの時、あんなことを言わなければ良かった。あんなことをしなければよかった、と思うことの一つや二つはあるものです。それが誰かの心に、今なお深く刻み付けられ、傷となってうずいている、と言うことがあるかもしれない。創世記の記者は、バビロニヤの捕囚の地で、自らの過去として、イスラエルの族長達の物語を書き続けたのだと思います。しかし神様はその人々から自由を奪うつもりは毛頭なかったのです。罪を犯さないように、人間をロボットのようには決してなさらなかった。やがて失敗してぼろぼろになって戻ってきた放蕩息子が「私はもうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と自分の責任を担おうとした。彼は再び家に迎えられ、父との関係をもう一度新たにすることが出来たのです。

洪水の後、神への信頼に生き、み言葉に従って生きたノアは、神に向かって築いた祭壇にいけにえを捧げます。(8:20-22) 今は神に反旗を振り回し、神に従わない人はただ一人もいないのです。しかし、神はわかっているのです。
<人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。>
洪水の前であろうと、洪水の後であろうと、人の心は悪に満ちているのです。しかし神は再び<人に対して大地を呪うことは二度とすまい> 二度とすまいとー二度繰り返されます。(8:21b)
なぜか?
神は人間の本質が深く罪深いことを知っておられるのです。ノア自身の最後も決して信仰的ではありません。ノアは農夫になりブドウ畑を作ります。そして飲んだくれて、正体なく全裸になって酔いつぶれているさまが彼の物語の終わりです。

昨日、酒を飲んで床に就いた人もいるでしょう。でもノアほど飲んだくれて前後不覚にという人は多くはない。でも神は人間はただの罪人だと諦めはしません。人間はそんなものだ、どうしようもないただの罪人、飲んだくれだと、人間を放置しないのです。やがてアブラハムを選びます。信仰の苦闘があります。そしてあのヤコブの息子からヨセフを選び、復讐でなく、限りない許しを人々に示します。そして、かの日にイエス・キリストをユダヤのベツレヘムに送られます。

神様は人間存在の弱さ、足りなさ、空しさを知り抜いて、なお諦めずに、共に歩むことを私達に期待するのです。ノアに虹を見せた創世記9:16「・・・雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」

期待されるとは、そこに限りない赦しがあると言うことです。はかりしれない愛が注がれています。

2022年10月30日 礼拝メッセージより

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