大きな手の中で

使徒言行録 19:19-20

数年前、ものみの塔から脱会した女性にお目にかかったことがありました。脱会に手を貸した牧師たちは私の知り合いでした。最初は心配した家族の声も耳に入らなかったのですが、やがて理性を回復してこの方は家庭に戻りました。しかし夫とは離婚して、その後ストレスから胃をいためて胃を半分切り取る大手術をしたそうです。カルトに心引かれて人生の大切なものを失ったのです。

パウロの活躍した2000年前のエフェソで、キリスト教の信仰に入信することで、魔術の本を燃やしたということが書いてあります。エフェソは地中海に面したアジア圏の最大の商業都市だったといわれます。船による交易は、陸地を通って通行するより多くのものを運ぶことができたからです。エフェソはヨーロッパにもつながり、中近東にもつながる、また北アフリカ、エジプトにもつながる要衝の地でした。エフェソは文化の最先端を行く町でしたし、世界の情報が集まる町でもありました。絶えず新しい情報がもたらされ、町が活気付いたのです。パウロは異例に長く3年の間エフェソに滞在しました。(使徒20:31)

その町にいたのが多くの魔術師たちです。その魔術師たちの本を焼いたのですが、焼いた本の値段を見積もったところ銀貨5万枚ほどであったというのです。数億円にも上る金額と考えられています。いかに魔術師といわれる人々が多かったかを予感させます。ここに言う魔術師は占い師、まじない師といえます。時代の先端を行く町で、貿易によって栄える町。町中がいつも活性化するその町で、魔術が人々の心を捉えていました。

19世紀から20世紀の初頭にかけて科学文明が飛躍的に発展しました。科学が発展すると、魔術的なものはやがて廃れるであろうと人々は考えたといわれます。その後の文化文明は人間の予想をはるかに超え目覚しい発展を遂げました。占いや魔術はどうなっていったのでしょう。廃れたのでしょうか。廃れるどころか、ますます盛んになって、むしろ市民権を確立したような印象があります。毎日、民放の朝のTVニュースでは人の運命を占う。星で占う。手相を見る。それは知性の低い人々にとどまらず、政治家や世界の指導的な地位にある人々が占いにこるということがしばしば起こっているといわれます。

かつて第二次大戦中のフランスのレジスタンスを率いたド・ゴール将軍は占いにこっていたことが死後明らかにされました。フランスは戦後長い時代政情不安でした。わたしの記憶では当時数か月で内閣が倒れるということが普通でした。その主たる理由は、植民地としてのベトナムを失って、唯一残ったアルジェリアの独立を認めるかどうかで国論が二分したことでした。フランス現地軍(外人部隊と言われる軍隊)はアルジェリアにおける独立運動を押さえるために、民主主義を振り捨てて、強権を発動していました。拷問。指導者の殺戮。独立阻止のために、ありとあらゆる方法を行なった一時期があります。そのためにフランス内閣は次々と登場し、倒れました。やがてしびれをきらしたアルジェリア駐留の現地部隊が、反乱とクーデターを起こし、軍部全体がクーデターに傾いたのでした。将軍たちはフランスの右翼を代表すると見られた、かつての英雄シャルル・ド・ゴールを指導者としてかつぎだしたのです。フランスは一挙に右旋回すると見られた矢先、ド・ゴールはアルジェリアの独立を認めてしまったのです。戦後最大の危機を迎えていたフランスは、この決断によって、クーデターから救われ、いっきょに安定を取り戻して行ったのです。当然、ド・ゴールは何度も暗殺の危機に見舞われました。だからでしょうか、ド・ゴールは暗殺も恐れぬ英雄像を打ち立てましたが、じつは占いにのめりこんでいた。この人は突然の動脈瘤破裂でなくなったのですが、その時も、彼はトランプ占いをしていたと当時の新聞は伝えました。占いがド・ゴールの政治的判断を変えたはずはないでしょう。でも、不安に心引きずられたのです。現代人はド・ゴールを笑えません。今、これほど占いが人々の心を捕らえているのですから。

旧約聖書でも占いが非難されています。古代でも、現代でも、いつの時代にも、占いは絶えません。じつは、運勢の良い、悪いなど、ないのです。占いは、当るも八卦、当らないも八卦というくらい、要するに遊びに過ぎません。でも遊びの向こうには、ゆれ動くある恐れがあります。信じる神を持って、心に信仰の筋道をたてるのか、それとも不安な心理の中で、自分を圧倒するかも知れない、謎の力を恐れて日々の運勢をはかるのか、どちらかでしょう。キリスト教信仰を生きることは、選び取る心を持つことです。神の道に反することに明確に「NO」を言い切ることは、共同体としても教会も、個人も大切なことです。強要されたとはいえ、太平洋戦争中に教会のリーダーが神社礼拝を受け入れたことは、消しがたい汚点として残りました。海の向こうの韓国や中国では、これを拒絶して神学校は閉鎖され、キリスト教徒は殉教していました。妥協や、優柔不断が、キリスト教信仰にそぐわないことは、しばしばです。今日は<主の日>の日曜日。

今日ほど、自分の命の軽さ、小ささをひしひしと思い知らされている時代はない。なにか自分の命が言いようのない力によって動かされているのではないか。つまり運命を恐れる気持ちがあります。手相を見てもらって、自分の将来が大丈夫だといってもらいたい。悪い運命から逃れさせてほしい。交通事故を起こさないように守り札をつける。お払いをする。病気にならないように。平穏無事でいられるように。占いや魔術、そうした類の宗教からますます離れられなくなるのです。

エフェソの人々は、自分の持っていた魔術の本を焼き捨てた。そして主の言葉が広まっていったとあります。主の言葉を信奉し魔術に頼らなくてもいいようになった。神の言葉を信じるということは、神がこの世界の創造者であることを信じることです。この世界の何らかのシステムではなく、わけのわからない運命でもなく、創造者である神が一人の人間の存在を握り締めておられるのです。

詩篇3編6,7「私は身を横たえて眠り、また目覚めます。主が支えてくださいます。いかに多くの民に包囲されても恐れません。」そうダビデは歌っています。この詩篇はアブサロムが父親であるダビデを殺そうとして周到な準備を重ねてクーデターを起こしたときに作られた詩篇です。ダビデは失敗の多い人でした。かつて忌まわしい問題を起こし、そうした問題を子供たちはよく知っていました。アブサロムの怒りも、もっともだということができる部分もあります。しかしそれは父親を殺して王権を奪い取ることに至るとは思わなかった。父親を一気呵成に殺すことができなかったものの、アブサロムのクーデターは短期間で軍隊を掌握して、一見成功してしまったように見えたのです。ダビデは誰に怒りを向けられるのでしょう。誰にも向けられない。すべてはダビデ自身の不行跡に原因があったのです。

彼は深く悔い改めたのです。神は過去の罪を許していました。ダビデは行く末がどうなろうと神にそっくりそのまま委ねることにした。だから、眠れたのです。だから、身を横たえ、眠り、そして朝、さわやかな目覚めがあったのです。神が支えてくださるからです。人間は常に様々なものに包囲されています。悪意や策略に囲まれることもあるかもしれない。生きるということはじつはそうしたものに囲まれて生きることです。四面楚歌。それが日常なのです。でも我々がどんな力や、時には悪意に包囲されても、最終的に私たちをつかんでいてくださるのは父なる神なのです。だから自分は敵に囲まれた中で、眠りにつき、目覚めることができます。

(2021年06月06日 礼拝メッセージ)

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